百物語 六十九回目「イボイボ」

「こまわりくん、ってマンガがはやったじゃあないですか」
「ああ」
7年ほど前のことだったか。
仕事場の裏から出てすぐ向かい側に、朝四時までやってる飲み屋があった。
いつも真夜中に仕事を終えると、その店にいって飯を食い酒を飲み、埒もない話をしたものだった。
「そのこまわりくんの作者が、こまわりくんの前に描いていたマンガに、いぼぐりくんというのがあって」
「ああ?」
「頭がいがぐりではなくて、いぼぐりになってるんです」
「なんだよ、いぼぐりって」
「最初にそれでブレークして、いぼブームを起こしたんですよ」
「嘘つけ、知らねえよ。そんなの」
「いやいや、ねえ、ありましたよねぇ」
「いやあ、聞いたことないですねえ」
「ありましたって、いぼぐりくん」
「だから。エビデンスをだせ、エビデンス
おれは。
嘘を吐いているつもりはなかったのだが。
あまりに間抜けなことばかり言っていたせいか。
とんでもない嘘つきのように思われていたかもしれない。
まあ、おれの人生がでたらめだったから。
聞いているほうからすると、なんだそれ。
となったと思う。
そう考えるとおれの言葉は、意味と非意味の境界をふらふらしてたんだろうなと。
今にしてみると、そんなふうに思える。

イボイボは。
YBO2と書くとバンド名になる。
80年代の半ばごろ、西のボアダムズ、東のYBO2と並び称された。
ボアダムズはかの、はなたらしの山塚アイがひきいるバンドであり、問答無用の迫力があった。
YBO2はサブカルチャー的なキーワードを色々と散りばめて出来上がった感じもあり。
色々なものをつき抜けて、疾走していく感じがあったボアダムズと比べると。
異様さや特異性がポストモダン的な文脈に回収されてしまうような感じはあった。
のちにバンドをひきいる北村昌士はYBO2を「ワイビーオーツー」と呼ぶようにと言ったそうだが。
もともとはイボイボであり、そもそもマンガのいぼぐりくんから拝借して名付けたともいわれる。
YBO2は、例えばミシェル・フーコーの狂気の歴史のような視点から近代をとらえて音楽を構築していったとか。
コピーとオリジナルの二項対立そのものを無化することを、ゴジラの咆哮のようにも聞こえる轟音の中で実現したとか。
色々語ることも可能であるが。
しかし、実際のYBO2の音にふれると。
それは、言葉により語れるようなものを。
つまり、意味というものが作り上げているような世界を。
崩壊させてしまうような。
高速で振動する聖なるカオスを呼び覚ますかのごとき。
轟音。
轟音。
轟音。
それだけが。
つまり、ノイズが歌ううたが、非意味の彼方より、生命の根源を引き起こしてこるような。
無から有への命懸けの跳躍を見ているような。
そんな感じがする。

おれはまあ、ある意味ノイズのような言葉を語りたかったのかもしれないが。
虚構をしかけるよりも。
自分の人生を率直に語ることによって。
ノイズに近づいていくというのは。
なんだか笑える人生を歩んでいるのか。
とか。
まあ、思ったりもする。

 

 

 

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百物語 六十八回目「黒百合姉妹」

昔から変わらず、古本屋が好きだ。
昔は、大阪球場のところにあった古書街によく行った。
最近は、梅田の駅前ビルにある古書街へ遊びにゆく。
古書街は迷路のように思え。
いたるところに入り込んだら抜けれない袋小路があるような気がして。
丸一日でも彷徨い続けることができる。
最近のブックオフとかは、まあ便利ではあるのだが。
あの雑然として混沌とした古書街の魅力はない。
古書街にはどんなものが眠っているか得体がしれないような凄みがある。
ブックオフのようなチェーン店は別として。
昔ながらの古本屋には二種類あるように思う。
ひとつは。
骨董品としての本を扱う店。
そこでは本はきちんとした商品となり、様々な等級づけ価格付けがなされ、価値の体系の中に本は組み込まれる。
もうひとつは。
雑然と様々なジャンルの様々な本が並べられている。
多くはひと昔前の流行であったり。
今はもう忘れ去られた大衆作家の本であったり。
ジャンクめいた本が、既にかつて商品であったことを忘れ去られたように並べられている。
ある意味本の価値を買い手が造り出すような。
そんな古本屋。
おれは後者のような古本屋が好きで。
そうした古本屋で昔の詩人の文庫や、大昔の美術展の図録、単行本に収録されてない小説が乗っている雑誌のバックナンバー、怪しげな学術書、高名な作家が書いたが忘れ去られている物語といったものが。
片隅に埋もれていたりする古本屋を延々と巡りつづけ。
まる一日を潰してしまったりもする。
ただ、今ではそうした古書街も随分縮小して消え去りつつあるような気もする。
おれが、泉鏡花の黒百合を見つけたのは、そうした古書街であった。
それは奇妙な物語であった。
いわゆる中世の伝奇ものに片足をおきつつ、近代の醒めた瞳で世界を眺めながら。
書かれた物語であるように思った。

黒百合姉妹は。
とても奇妙なバンドだと思う。
彼女らはヨーロッパの中世に歌われていたトラッドを歌っているようにも思えるが。
しかし例えば、イギリスのデッド・カン・ダンスという。
つまり死者もまた踊るという意味の、既に死に絶えたはずの音楽を現代に蘇らせ歌ってみせるというバンドと比べると。
とても古楽を再現しているようには、思えない。
確かに雰囲気はあるのだが。
まあ、雰囲気だけだと言ってもよくて。
では、彼女らは偽者なのかというと。
いや、そもそも偽者にすら到達していないというか。
そもそも、本物というのはなんだろうかと思わされる。
模倣や再現といったものは、完全なオリジナルというものを前提とするのだろうけれど。
しかし、その完全なオリジナルというものは本当にどこかにあるのだろうかというと。
全てはある意味、模倣であり、何かの改編であると言ってもよく。
例えば、神話の多くがその源流をその地域に広く流布されている伝承に起源を持つように。
完全なオリジナルとは、イデア的かあるいは、超越的な観念と言ってもいいのではと思う。
例えば、この世には完全な円、つまり中心から等距離な点の集合としての円など存在せず、それは観念の中にしかなくて。
実際にある円は、多少歪んでおりいびつなのだろうけれど。
おれたちはその不完全な円を見ても円と認識できるので。
完全なオリジナルはではこころの中にこそある、ユング心理学でいう共通無意識やレウ゛ィ・ストロースの言う構造のようなものかというと。
まあ、そうかもしれないが。
しかし、むしろおれには経験の中から築き上げられてゆくという本質直感的なとらまえ方のほうがしっくりくるのだが。
黒百合姉妹はようするに、その直感として何か古のはなうたを歌っているような。
そんな軽々としながらも。
みょうに深淵に根ざしているようなものを持ち。
誤解を恐れずに言うのであれば。
それはジャンクとして、つまり元々の古楽のイメージだけを引き剥がし、自由に纏ってみせることによって、音楽に根ざす直感的な部分のみを遊離させてみせたような。
そんな感じがする。

そして、泉鏡花の黒百合もまた。
中世の伝奇を模倣しているようだが、それは偽者にも至っておらず。
要は本物/偽者という二項対立的な図式からも転げ落ちてしまうような。
物語としての直感的な部分を遊離させ、軽やかに纏ってみせ。
自由に語ってみせたと。
そう思う。
そしておれもまたいつかそんな風に。
古くて新しい自由な物語をこそ。
語ってみたいものだと思うのである。

 

 

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百物語 六十七回目「アントナン・アルトー」

20代のころの話。
よく映画を見た。
いわゆるメジャーなもの、芸術的なもの、B級サスペンスやホラー、アニメ。
まあ、なんでも見たのだけれど。
たまにマイナーな作品の上映のときに。
場末のポルノ映画館を一時的に借りて上映されることがある。
普段あまりいかない、街の片隅。
迷路のように入り組んだ、しかし多分夜になればネオンも輝きそれなりに賑やかなかもしれないが。
まるで冬の曇り空に閉じ込められたように灰色に沈んだ路地裏を歩くと。
小さな小屋のような映画館があったりする。
中に入ると妙に薄暗く。
そこはなんだか巨大な生き物の体内に入り込んでしまったような。
闇が溶けてゆき、液状化して溜まったような映画館の中で。
断片化した色彩の氾濫と、切り刻まれた音たちがこだまするのに浸りきって。
やがておれ自身が。
闇に侵食され溶けてゆくような。
そんな心地になったものであった。

アントナン・アルトーは、作家であり、役者であり、詩人である。
病苦からくる苦痛と、麻薬の酩酊と、スキゾフレニアの幻惑に生きたひとであった。
その言葉はあまりに感動的であり、こころに突き刺さってくる。
少し引用する。

「皮膚の下の体は過熱した工場である
 そして外では病者が輝いている
 彼はきらめくあらゆる毛穴を炸裂させて」

アルトーは、ローマ皇帝であるヘリオガバルスを主人公とした小説を書いている。
それは「戴冠せるアナーキー」を描いた小説であるといえる。
それはあらゆるものでありえ、またなにものでもないけれど、ただあるような、潜在性の爆発的な顕現なのであろう。
そして、その潜在性の果てに、「器官なき身体」という言葉がある。
ドゥルーズガタリはアンチオイディプスという資本主義の分析を行った本の中で、このアルトーの言葉である「器官なき身体」を使っている。
生きるための処器官により構成される身体とは別に、器官なき身体というものがあるとする。
それは顕在化する以前のようするにまだ何ものともなっていないゆえに何ものでもありうるような、潜在性といえるのではないかと思っている。
そこに登録されるのが種々の機械である。
それは接続され、連携されることにより世界を駆動してゆく。
いうなれば、下意識において様々に世界と意識がインターアクションをとり創造していくその仕組みなのだが。
それは器官なき身体の上になりたっていると考える。
その器官なき身体から顕在化し爆発的に現れるもの、抗うもの、創造するものが「戴冠せるアナーキー」ではないかと思っている。
まあ、例によっておれの妄言としてとらえていただければ幸いであるが。
ドゥルーズスピノザと表現の問題という著作の中で、神は無限の可能性の表現であると語った。
神なき世界において無限の潜在性を顕現させてゆくのが「戴冠せるアナーキー」ではないかと思う。

おれは闇の中に溶けてゆき。
スクリーンから滲み出してくる、駆動する色の断片たち、音の欠片たちを。
半ば溶け込んでしまった身体の中に取り込み組み込んでいって。
つかの間に、闇の空間の中で、からからと回ってゆく。
物語たちと連動し駆動されていったのだ。

 

 

 

 

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百物語 六十六回目「アルフレッド・ジャリ」

中学生のころ。
前にも書いたように、よく殴られた。
まあ、おれの性格が悪かったせいもあるのだろうけれど。
普通に廊下を歩いているだけで、前から殴りかかってこられたし。
階段の最上段で背中を蹴られたりして、あやうく転げ落ちるところだったこともある。
気がつくと制服をぼろぼろにされたりしていたのだが。
学校とはそういうところだと思っていたので。
特にいじめにあっているという認識は無かった。
そのころただひとりだけ、おれの味方というか。
ともだちがいて。
ある日そいつが。
「おまえ、弱いからこれ持っとけ」
と言って、ナイフを渡してくれた。
刃渡り20センチほどだったろうか。
正確にはナイフではなく、単に鉄板を細長く切って、グラインダで削って刃のようなものを作っただけなので。
それでひとを斬るなんてできそうにもない、ぺらぺらなものだったのだけれど。
見た目は結構物騒な感じに仕上げられていたので。
とりあえず、囲まれそうになったらそれを振り回して逃げることができ、多少は役に立った。
そいつはおれとは別の高校にいって、そこを卒業したあとまあ、戦闘のプロになった。
銃器についてはとても詳しく、多分自動ライフルを目を瞑っていても組み立てられるレベルで。
一時、小説で銃器を書くときにはそいつに相談したものだった。

アルフレッド・ジャリは。
19世紀末から20世紀初頭というかのシュールレアリストたちが暴虐の限りをつくした時代の、作家である。
アンドレ・ブルトンが帝王として君臨し、ディアギレイエフ・ロシア・バレエ団が劇場を蹂躙していたフランスで。
ジャリはユビュ王という人形劇で、劇場を騒然とさせたりもした。
ジャリは、拳銃が好きだった。
本当なのかどうかは知らないが。
ジャリのアパートに近づくと、拳銃を撃つ音が必ず聞こえてきたそうである。
彼は、部屋にいる蜘蛛を撃っていたそうなのだが。
蜘蛛の巣は装飾として残していたそうだ。
真偽のほどは不明である。
ジャリは超男性という小説を書き。
スポーツと性行為と機械を奇跡のような手並みで一体化させる。
スポーツとは何かというと。
それは比較できないものを比較できるようにするシステムであり。
機械はその比較を計量化、数値化する装置であるともいえ。
ジャリはそのシステムに性行為をぶちこんで、数値化を試みてみせた。
ベルクソンのいうように。
現代における問題は、本性の差異を段階の差異に取り違えることにあるように思う。
つまり、実存に根ざすような経験、純粋に強度によって語られるべき経験ですら。
数値化し計量し、比較可能なものへと変換することにより。
それはどちらかがより大きい、どちらかがより小さいといった比較により優劣がつけられるように見せかけるが。
そもそもそのようなものは錯誤でしかなく。
本来は比較不能なそれ自身における差異があるだけなのだ。
そして、強度そのもののメタファーともいえる性行為を。
その段階の差異への変換システムであるスポーツの中へとねじ込んで。
測定装置である機械によって量ろうとすることによって。
現代というシステムを壊して見せようとしたのかとも思える。

拳銃は。
工業製品であり、機械であるにも関わらず。
それは奇妙に身体化し、臓器化する存在であるような気がしてならない。
それは、日本刀のように優美さとは全く無縁のシンプルな存在なのだろうけれど。
ジャリはその拳銃を肉体化し、自身の一部として。
愛という強度そのものを測定する不可能へと挑んでゆく機械となる。
そんな気がしている。

 

 

 

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百物語 六十五回目「シュヴァルの理想宮」

確かそれは、大学受験をする前の日であったと思う。
おれは自分の部屋で。
なぜか漫画を描いていた。
それは、多分中学生のころに友人と馬鹿話をして着想したストーリーで。
その漫画に着手したのは多分高校生の終わりごろだと思う。
結局、大学に入学したのはその翌年であったが。
大学生になっても飽きもせずその漫画を描きつづけていた。
自分の絵を出展している画廊にその漫画をおいて、来場する知人たちに無理やり読ませていたのだが。
まあ、あまりのその長大さに。
これをライフワークにするつもりかよ、と。
失笑されたものであったが。
社会人になってもいつか続きを描く日がくるであろうと思い。
その漫画のシナリオを書きはじめて。
今でも時折、思い出したように書き足しているのだけれど。
一向に終わる気配はない。
ただ、30年以上の歳月をかけて漫画、シナリオと書きつづけているのだが。
全部で文庫本一冊にも満たない量でしかなく。
いつか終わる日がくるとは到底思えないのだが。
自分の人生を貫いているような物語があるということを時折思い出すと。
不思議と安心するものがある。

フェルディナン・シュヴァルは郵便配達夫であった。
フランスの片田舎で、自転車も使わず歩いて郵便配達をしていた。
19世紀の世紀末であり。
都市ではシュルレアリストたちが、時代の変革を夢想しアカデミズムに叛旗を翻していたはずだが。
シュヴァルの住む田舎は静かなものであったろうと思う。
ある日シュヴァルは石につまづく。
その石の形の奇妙さに魅了され。
それを自宅の裏庭に置くのだが。
やがてシュヴァルは日々石の収集をはじめだし。
毎日石を積み上げてゆき。
それは次第に建物のように膨らんでいって。
ついに33年の月日が流れた後には、そこには宮殿ができていた。
シュヴァルはその宮殿に理想宮と名づけたのだが。
それを作品として呼ぶとすれば。
誰かに何かを伝えることを放棄した作品であると言わねばならないだろう。
それは、ただただ石を積み上げてゆくという行為の果てに、辿り着いたところなのだが。
シュヴァルの理想宮は太古の遺跡のように見るもののこころに戦慄と畏怖をもたらすだけの力を持っており。
ひとりの郵便配達夫の人生を貫いた何かがそこにはある。
そして、もうひとり。
何かを伝えることを放棄した作品であり、またそれに触れたものに畏怖の感情をもたらす作品として。
かのヘンリー・ダーガーの「非現実の王国」がある。
これは、世界一長い小説としても知られる。
20世紀のはじめのシカゴ。
おそらくは世界恐慌や経済的混乱の渦中にあったであろうアメリカで。
ヘンリー・ダーガーは掃除夫の仕事の傍ら、それこそゴミ捨て場から拾ってきたチラシの裏に。
その長大で異様で戦慄的な小説と、エロスと残酷さと聖性が一体化したような挿絵を、書き、描き続けた。
これを作品として呼ぶのであれば。
それは伝えることを放棄した作品であると、やはり言わねばならないが。
まぎれもなく「非現実の王国」はヘンリー・ダーガーの人生を貫いていた。
ウォルター・ベンヤミンの概念に「純粋言語」というものがある。
それは「もはや何ものをも意味せず表現しない」言語であるとされる。
そして、それはまた「永遠のことば、神の響き、神の声」であるという。
すなわち、神の言葉は誰かに伝える、表現するというものではなく、ただあり。
そしてそれはひとを貫く力がある。
ベンヤミンはこう語ったという。
「いかなる詩も読者に、いかなる美術作品も見物人に、いかなる交響曲も聴衆に向けられたものではないのだ。」
それはただあり。
時を越え、空間を越え、領域を越え、貫いてゆき。
そしてただ存在する。
おれたちに許されるのは解釈したりすることではなく。
その純粋強度、あるいはベルクソンの言うところの本性の差異(それ自身における差異)にふれて。
その有り様に貫かれるだけなのだ。

ああ、おれは。
意味の無い長大な物語を未だに書きつづけているのだが。
おそらくは。
石を積みつづけたシュヴァルのように。
ある日自分を貫いた何物かを。
それが永遠なのか神の声なのかはさておき。
その得体の知れぬ何かを。
形として残したいと。
そう思っているだけなのかもしれない。

 

 

 

 

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百物語 六十四回目「僕らはなんだかいつも全てを忘れてしまうね」

たん。
た、たん。
たた、たん。
た、たたん、たん。
たたん、たたん、たたん。

闇の中に規則正しいリズムが響いてゆく。
それは心地よく、僕の心音と同期をとるように律動を作り出す。
身体を揺らす振動は、僕をまるで宙に浮いているような、不思議な気持ちにした。
(ねぇ、凄いよ)
闇の中に降りてきたあなたの声に、僕は目を見開く。
僕らは、そのシートに凭れ合うようにして仲良く並んで座っていた。
あなたは、僕の方を見て微笑みかけている。
ああ、いつものように美しく見開かれた、黒曜石の輝きを持つ瞳は僕を貫き。
桜色の唇から漏れる甘やかな吐息に、僕は酔いしれながら。
夢見るような気分であなたを見つめていた。
あなたは少し華やいだ表情を見せて、窓の外を指差す。
あなたはそして、振り向くと窓の外を見る。
夜空にかかる銀灰色の雲たちが、漆黒の海原を高速で泳いでゆく海獣のように飛び去っていく。
僕は、あなたの眼差しを追い、窓の外の大地を見る。
そこには、静寂を花に変えたような真白い花々が咲き乱れる平原が広がっており。
その平原の奥にある沼地から、幾羽もの、そう幾羽もの銀色の鳥達が。
漆黒の夜空へ向かい飛び立ってゆくのを見ていた。
僕はその地上から天上へ向かい、銀色の雪が舞い上がってゆくようにも見える荘厳な風景を眺めつつ。
あなたに肩を寄せると、触れ合った肩からあなたの温もりがそっと伝わってくるのが判り。
僕らを揺さぶる規則正しい律動の中、昼間の日差しのようなあなたの暖かい体温が優しく僕を包み込んでゆくような気がして。
いつの間にか、僕は笑みを口の端にのせた。
あなたは、はしゃぐような笑みを見せるともう一度言った。
(凄いねぇ、この景色)
ああ、凄いねぇ。
僕は独り言のようにそう答えると、あたりを見回す。
薄暗く細長い、ある種洞窟のようにも見えるその車内は僕たち以外のひとの気配は無かった。
あなたと僕は、肩と肩を寄せ合って、お互いの体温を共有するかのように身を近づけてシートに座っている。
やがて、白い花の咲き乱れる平原を越えて湖の畔を駆け抜けてゆく。
鏡のように蒼ざめた水面に、炭に塗りつぶされた夜空と銀灰色の雲が映り込み、飛び去って行った。
僕はふと気配を感じ、傍らを見る。
そこには、ひとりのおとこが立っていた。
僕は、ポケットから切符を出しておとこに渡す。
おとこはその切符を見ると満足げに頷いて、僕に返した。
そして、僕はあなたの分の切符も持っていたはずだと思いだし、ポケットの中を探るのだが。
まるで遠い記憶を探し求めるように、僕はあちこち探すのだが。
それは見つからず、少しずつ焦燥が僕のこころに膨らんでゆくのだけれど。
おとこは怪訝な顔をして、僕に問いかける。
「何を探しているのですか」
僕は、答える。
もう一枚、切符があるのですが。
「でも」
男は少しだけ微笑むと、首を傾ける。
「あなたひとりしかいないのに、切符なら一枚で十分でしょう」
何を 、 言って いる の。
と、僕はあなたのほうを振り向き。
そこに誰もいないことに気がつく。
そして、おとこのほうを見ると。
白衣のおとこが笑みを浮かべ、頷いて見せる。
僕を乗せた車がまた動きだし、規則正しい律動が蘇った。

たん。
た、たたん。
たた、たん、たんと。

僕の心音と同期を取るように緩やかな振動が僕を浸してゆき。
白い壁、白い天井、白い床が過ぎ去ってゆく。
僕は、何か眩暈のようなものを感じ、奈落の底へ落ちてゆくような感触に恐怖を覚えながら、目を閉ざす。
そして再び訪れた闇の中で、その規則正しいリズムに耳を傾ける。

たん。
た、たん。
たた、たん。
た、たたん、たん。
たたん、たたん、たたん。

闇の中に規則正しいリズムが響いてゆく。
それは心地よく、僕の心音と同期をとるように律動を作り出す。
身体を揺らす振動は、まるで宙に浮いているような、不思議な気持ちにさせられた。
(ねぇ、凄いよ)
闇の中に降りてきたあなたの声に、僕は目を見開く。
僕はあなたの華やいだ顔に陶然となりながら、あなたの黒い真珠のように美しい瞳が写す風景を目で追った。
黒い影に被われたような大地に、巨大な十字架が聳え立っている。
それは漆黒の夜空を貫くのではないかと思われるほど、高く高く聳えており。
あなたは、はしゃいだ笑顔を見せて、その十字架を指差した。
(凄いねぇ、この景色)
その霊峰のように高く聳えている十字架に向かって、銀色の鳥達が無数に飛んでゆく。
それは、解き放たれて故郷を目指す無数の魂のように、天頂の蒼ざめた空に向かって延びている十字架へと飛んでゆく。
あなたは、優しく微笑み。
ああ、僕は何かを忘れているようだと笑みを返して。
こうひとり言を漏らすのだ。

「僕らはなんだかいつも全てを忘れてしまうね」

 

 

 

 

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百物語 六十三回目「山童」

子供のころの話である。
住んでいた街は、山に囲まれていた。
家の前は坂道で、そこを下ってゆくと川があり。
その川を渡ると山である。
山へ入って遊ぶことはよくあったのだろうとは思うのだが。
不思議なことに山の中の記憶はあまりなく。
その入り口となる場所がいくつかあるのだが。
その、山の入り口である空き地はよくおぼえており。
山の中では、まるで夢を見ていたとでもいうかのように。
どこにいるのかも。
どこに向かっているのかも。
よく判らない状態で、歩いていたようである。
一度、山の中で遊んでいて道に迷ったことがあり。
おれの意識の中では、とんでもないところへ。
別の街に向かって歩いているような気がしていたのだが。
気がつくと、家のすぐ近くの山への入り口の空き地へ辿り着いていて。
とても不思議な気がしたものだった。
山の中は方角も空間もない、全てが溶けてしまったような。
混沌とした夢のような世界になっており。
そこへの入り口は空間を歪めて接続されている。
今にして思うと、そんな感じであった。

山童は。
一つ目小僧のような姿をした妖怪なのであるが。
山中に出没する妖怪であるという違いがある。
山中に出没する妖怪で、一つ目のものは色々知られている。
例えば。
一本だたらと呼ばれる妖怪がいる。
これは、一つ目だけではなく、一本腕、一本足の姿をとるらしい。
たたら、という言葉から想像されるとおり、鍛冶師と関係しているとも言われるようだ。
これら山に現れる一つ目の妖怪は。
中国の伝承にある、一枚の翼を持ち、一つ目の鳥からきているという説もあるらしい。
この鳥は。
一羽では飛ぶことができないのであるが。
二羽そろうことで、はじめて飛べるようになるという。
両面宿儺とよばれるものは。
これとは逆に、二つの顔、四本の手、四本の足を持つ。
伝承の中では、英雄として扱われることもあり。
強靭で無敵の強さを持つこともあるようだ。
これは、ギリシャ神話のアンドロギュノスにとても似ている気がする。
アンドロギュノスは背中で繋がった男女なのだが。
神がそれを切り離し、おとことおんなに分離したらしい。
プラトンの饗宴ではさるがゆえに、おとことおんなは求め合うものだと語られていたようだ。
さて。
これらのことが指し示すことは。
ひとは、ひとつの完全なものが切り離されて産み出された、個別の部分である。
あるいは。
ひとは、繋がりひとつになることによって、より大きな存在へとなってゆく。
おれは、おそらくひとはそもそも、接続され駆動される存在であることを暗示していると思うのだ。
つまり、おれたちは互いに繋がるものであり、繋がることによりさらに新しい世界へと。
飛びたっていくものであると。

山は。
それぞれ、接続できる場所があり。
その中は、混沌とした原初の世界であり。
様々な場所を空間を歪めて接続させる。
そして、そうして接続することにより。
より新たな世界を造り上げてゆくと。
そんなふうにも、思うのだ。

 

 

 

 

 

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