百物語 八回目「山の中で犬と遭う」

それは、小学生だったころの話。

おれは、大阪のずっと北のほう、歩いて京都との境まで行けるようなところに住んでいた。
かなりの田舎だったかというと。
そんな感じの土地でもなく、ごく普通の住宅地であった。
それは山の一角をとり崩したような土地であり。
山間に忽然と住宅地が現れる、そんなような場所だったと記憶している。
まあ、随分昔のことなので、大分記憶も歪んできてはいるのだろうけれど。
周りに田圃や畑、農村があるのではなく。
そうしたところは山間の道を通り抜けてゆく必要があり。
駅までいける道路は、ひっきりなしに道路工事のダンプカーが走っているような道が一本だけで。
その駅に行くにしても、バスで十分はかかったような気がする。
街はそれなりに高級な住宅が並んでいる感じだったが。
うちはその中は多少貧相な平屋の家だった。
家のすぐ裏手には、山があり。
あたりは住宅建設用の空き地が多く。
昼間にはどこかの山を崩す発破の音が聞こえてきた。
それはまるで山の中に夢みたいに現れた泡のような住宅地で。
小さな囲まれた世界の中にだけ日常があり。
その周りには、どこか剥き出しのものが溢れている。
そんな気がする場所であった。

その日は、夏になる手前のよく晴れた日であったように思う。
そらは、青い絵の具で塗りつぶしたように真っ青に輝き。
住宅地の周りの山々は緑が濃く。
相変わらず泡沫のような住宅地は現実感が乏しく、芝居のセットのようであったのだが。
まあ、子供だったおれはそうしたことを深く考えたり思ったりしていたわけではなかった。
むしろただぼんやりと過ごしていただけなのだが。
その日おれは、水疱瘡で休んだ同級生のところに学校のプリントやらを届けるため、いつもと違う道を通って帰っていた。
住宅地の周りは山に囲まれていたが、いくつかの抜け道のような場所があり、そうした場所を巧くぬけると山の裏側の田圃やら畑やら果樹園のある農村部へ出る。
そうした農村部から学校へゆくことができる。
学校は住宅地の中にはなく、農村部から駅のあるより大きく古い街へゆく途中にあった。
古くからひとの住んでいる農村部は、山の中に孤絶している住宅地と違ってひとの住む場所という感じが濃厚なので歩いていてなんとなく安心感があった。
学校から帰るときには、よくそういう農村部を通って山の中の抜け道を通って住宅地に帰って行った。
ダンプカーが埃を巻き上げる車道ぞいを歩くよりは、よっぽどそのほうが歩いていて気持ちいい。
おれは、いつもと違う抜け道を使っていた。
同級生のところにいくのは、いつもと違う山道を通ったほうが行きやすかったからだ。
そういえば、こちらのほうには池がありその上には神社があったなとかぼんやりと思いつつ山道を抜けていった。
そこは、昼間でも薄暗い緑の濃い山道であり。
池が近くにあるせいか、ほのかな湿気と少し冷気がただようような場所であった。
もしかするとそれは異世界の気配を漂わせていたのかもしれないが、子供だったおれはあまり頓着しなかった。
そしておれは。
その犬と出遭う。
薄暗く、見通しの無い山道を歩いていると、突然目の前に犬がいた。
大きかった。
まあ、小学校低学年であったおれが小さかったのもあろうけれど。
おれの目と同じ位置に目があった。
その身体は当時のおれよりもずっと大きかったであろう。
雪のように白い毛並みの逞しくどっしりした身体を持っているが、端正で気品のある顔立ちをしていた気がする。
首輪はしてなかったし、ひとに飼われている証はどこにもなかった。
犬、という感じはしなかった。
もっと別の。
何か得体の知れぬ、剥き出しのもの。
そいつの目は。
何かを写している感じではなく、雪のように白い顔に穿たれた二つのブラックホールのようでもあった。
感情を感じさせず、ただ自然にそこにいる感じであった。
今にしておもえば、危険だったのかもしれないが。
その犬とおれは暫く見詰め合っていた。
おれは恐怖や焦燥を感じていたのかもしれないが。
むしろ、それは畏怖という感覚に近かったかもしれない。
その山に囲まれた世界に。
強引に侵入してきたおれたちに対し。
そこに昔から住まうものたちからしてみれば。
おれたちはどう見えるだろう。
犬は。
じっとおれを見ていたが。
特に関心を持っていない風な。
ただ、おまえは間違えたのだから立ち去れといっているような。
風格のある佇まいで立ちふさがっていたので。
おれは少しずつ後ずさり。
やがて振り返って距離をとると。
走って逃げた。
追いかけられるのではないかと思い何度か後を見たが。
気配すらなかった。
あの犬は。
なんだが山の一部だったのかもしれないと思う。
飼われていたふうでもなかったし。
あんな大きな犬が飼われているでもなく、山で野犬として生きているというのも不思議なことで。
そんなふうに荒んだ感じはなかったので。
ただ、おれが間違えていると。
来てはいけない場所に踏み込んだのだと。
それだけを伝えるために居たような気がする。
その犬には二度と会わなかったし、その山に野犬がいるという噂がたつこともなかった。
おれ自身なぜかその話は誰にもすることはなかった。
あまりに不思議だったため、現実とは思えなかったからだろうか。

何年も後。
大人になってから子供のころ住んでいた住宅地に行ったことがある。
もう山もなく。
農村部もなく。
ただひたすらに住宅地が続いており。
ああ、全て消え去ったのだなと。
そう思った。

 

 

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