百物語 三十七回目「憑物筋」

学生時代の話である。
それは、当時はやっていたと思われる無国籍料理の店であった。
エスニックな装飾がほどこされたその薄暗い店内で。
おれの前にいたそのおんなの子は、こんなことを言ったと思う。
「結婚するときに、娘さんをくださいとかいうの。あれ絶対いややわ」
おれは。
「ほう」
と相槌をうつと。
皮肉な笑みを浮かべた唇を歪めて。
こう言った。
「しかし、レヴィ・ストロースのおんなが原始社会において富として流通するような経済人類学を学んでおいて、その実践の場においては否定するというのは、ダブルスタンダードやろう」
おれは。
怒らせたつもりだった。
罵倒されるのであろうと思っていた。
レヴィ・ストロースなんてあたしの人生には微塵も関係ないし、あんただって同じでしょと。
怒りとともにおれの言説が焼き尽くされるのをうずうずしながら待っていたんだが。
しかし、その子は。
「それもそうやねぇ」
とあっさり頷き、実におとなな対応を見せたのであった。
皮肉な笑みを浮かべたつもりのおれは腰砕けになり。
まあ、馬鹿なことを言って挑発しても、あっさりスルーされ相手にはしてもらえないのだなと。
当たり前のことを今更学んだのであった。

憑物筋とは。
古代から中世の村落共同体において。
富の不均衡から発生するものと小松和彦氏が憑霊信仰論の中で分析しており。
京極夏彦氏はそれを、ほぼそのままぱくって小説にしているが。
それは富の不均衡が生み出す嫉妬心などの感情から生み出されるものとしており。
多少納得いきがたいものがあった。
そもそも富というものは、穢れを生み出す。
富を蓄積するということは、穢れを蓄積するということとほぼ同意義である。
だから、モースの贈与論において、贈与の一撃という言葉が語られるように。
富を贈与するというのは穢れを贈与するということを示し。
経済というものの本質が実は、魔法的闘争そのものであるということを示しているのだが。
ではなぜ、富は蓄積されうるのかという話になる。
それは、王権という富と穢れを浄化する、つまり祝祭において蕩尽するというシステムを持った特異点の存在があってはじめて成り立つものだ。
では憑物筋とはなんであるかという問題になる。
それは、富を蓄積しながら蕩尽という浄化システムを持たない、不完全な特異点ということになり。
さるがゆえに、それは妖怪という歪な存在を招き寄せるということになる。
さて、原始社会においておんなは富とされる。
なぜなら、ひとはおんなを通ってこの世に現れるのであるから。
おんなの体には、他界へと通じる道があるということになる。
他界への扉であるがゆえにおんなは富となるのだ。
近親相姦のタブーとは、おんなを共同体の外へ出さないことが。
つまり富の蓄積により発生する穢れが問題になるのであり。
王権は、ではどうやってその穢れを浄化するのかといえば。
豊穣な性の享楽においてのみ可能になるのではと。
そう思うのである。

おれはまあ。
富の蓄積や穢れといったものとは無縁のつもりであったが。
それでもまあ時折。
小さな共同体の中で実は特異点であったかもしれないと。
そう思うことはあり。
それは機能不全の特異点としての。
妖怪の類であったのかもしれないと。
今にしてみると、そんなふうに思うこともある。

 

 

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