百物語 四十回目「呪詛」

十数年前のことになる。
そのころは、移動するのによく飛行機を利用していた。
今ではまずやらないのだけれど。
東京-大阪間でも普通に飛行機を使っていた。
その日。
珍しく、夏の夕暮れに大阪へと向かっていた。
飛行機の窓から見える景色は、どこか現実離れしている。
地上の風景も、ジオラマのようであり。
手を伸ばせば建物も乗り物も手にとることができるようで。
空から見下ろす雲にしても。
それは、シュールレアリスムの例えばイブ・タンギーが描いた風景画のような。
頭の中の空想が取り出されたように見え。
特に夕暮れ時の真紅に染まった景色は。
とてもこの世のものとは思えず。
機内も夕日の紅い光を浴びて薄赤く染め上げられており。
ふと気がつくとおれはもうこの世にはおらず、彼岸へ向かって飛び続けているのではないだろうかと。
そんな思いにとらわれたりもする。

時として現実というものは荒唐無稽だ。
例えば、おれ自身の人生をあるがままに小説にしてみると。
それはできの悪い冗談かと思えるような薄っぺらいリアリティに欠けたものになると思う。
そんなものである。
裏返していえば。
おれたちは、決して現実をあるがままに見ているわけではない。
剥き出しの現実をあるがままに受け止められるほど、おれたちのこころは強くはない。
つまり。
おれたちは現実に物語を当てはめてとらえることによって。
はじめて全てを受け入れることができる。

呪詛とは。
つまりは、あまりに苦痛に満ち、無慈悲な現実を受け入れるためにひとが発明したものだと言ってもいいだろう。
現実は容赦なくひとを追い込み、潰してゆく。
悲鳴と涙を撒き散らさせ、血を流させ、命を恣意的に奪ってゆく。
何の理由も無く、何の意味もない悲惨と絶望。
それが現実であるのだが。
おれたちは、それに物語を被せてみる。
おれたちのこの苦しさ、哀しさ、絶望は。
そう、なんの意味もなく、なんの目的もないものではなく。
遠い昔。
遠いところで。
全てを呪い。
呪詛の念を吐き出したひとがいて。
ああ、おれたちはせめてその呪詛の生贄に選ばれたんだと思うことによって。
どこか遠いところで血を流し慟哭したひとのこころのために。
おれたちもまた慟哭し血を流しているのだと思うことによって。
かろうじて、一歩。
もう一歩。
先に進むことができるのだと。

そんなふうに思うのだ。

 

 

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