百物語 五十回目「進化」

高校生のころの話である。
おれは、絵の師匠の元へ通っていたが。
時折、食事をご馳走になることもあった。
ある日の夕食後、居間でこのような話をした。
「生物の進化というものは不思議ですね。適者生存といいますが、より環境に適応したものが生き残っていくというだけでは、海から地上に生物が出て行くことを説明しきれないように思います」
師匠は。
面白がって聞いていたように思う。
「海という環境に比べると、地上はあまりに苛酷すぎます。例えてみれば、地球から月面へと行くようなもの。それは単に環境に適応しようというよりも、さらに超越的な力の介在を感じるのです」
師匠は、笑いながら言った。
「まあ、そうかもしれへんな」
そういうと、居間のソファから立ち上がった。
「では、その苛酷の環境に挑んだ魚を見てみるか?」
そして、おれたちは師匠のアトリエへと移動した。
いつものように薄暗く、魔法使いの工房のように混沌としながらも、目に見えぬ秩序に彩られたその部屋に。
昏いその水槽があり、その中の泥の上にムツゴロウがいた。
ムツゴロウは。
果たして、苛酷な環境に挑むことを望んだのかどうかは判らないが。
どこかひょうきんな顔で。
おれたちを見渡していた。

かつて。
バタイユの普遍経済学について、おれはこのようなことを語った記憶がある。
バタイユは地上には多大なエネルギーが降り注いでいるがゆえに。
過剰が生み出され。
それが呪われた部分となるとしたが。
実際には適正なエネルギー量など存在せず、むしろこのエネルギー量に適応したのが我々であるばずで。
ただ、過剰なものはまぎれもなく存在して。
それこそが進化であると。
熱力学の第三法則に対してマックスウェルの悪魔が為したことから。
情報エントロピーは熱力学のエントロピーと符号が逆転する。
簡単にいえば。
情報を伝達すれば必ず情報は減衰し、失われてゆく。
生物が子孫を為すという行為も、それは情報の伝達としてとらえることができるが。
そこにおいて、伝達する情報量が増加するという事象がある。
それが進化だ。
進化は。
おれたちに言説を閉ざすことが不可能であることを開示する。
それは。
解決可能な公理系など構築し得ないということのように思う。

そのムツゴロウは。
昔日の見果てぬ生命の夢など知らぬ顔で。
泥の上に横たわっていた。
師匠は。
満足げに笑っていた。
決して閉じざるいかなる公理系を認めぬその力もまた。
師匠は、笑い飛ばしていたのかと。
そうも思えたりする。

 

 

 

 

 

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