百物語 七十一回目「見えないひと」

その図書館は、書物の迷宮のようであった。
建物自体はそう大きいわけではない。
けれども、幾重にも折り重なるように配置された書架は、まるで僕を袋小路へと誘い込んでゆくようだ。
その本で作られた森のような図書館の中につくられた、森の空き地のような読書スペースに僕はなんとか辿り着くと本を開く。
腰をおろして本を読み出すとようやく気がつくのであるが、以外とこの図書館はひとの行き来がある。
本の作り上げた海の底を静かに遊弋していく魚のように、ひらりひらりとひとが漂っていった。
また、物思いに沈むように、書架を前に本を読み耽るひともいる。
秘密の話を囁き合うような声で、本を前にして語り合うひとたちもいた。
僕は、自分の選んだ本を読みながら時折目に疲れを感じると、そうした行き交うひとたちを眺めてぼんやりとこころと目を休める。
そこにいるひとたちは、互いに関心を持っていないように見えながら、それでも最低限の注意は互いに持っているようだ。
それは、まるで目に見えない蜘蛛の糸がそこにいるひとたちを、絡めとっているというかのように思える。
僕はそのおんなのひとが入ってきたとき、はっと息を呑んだ。
そのひとは、まるで蜘蛛の糸が張り巡らした網を喰い破るように、あるいは灰色の曇り空を切り裂いて現れたお日様のように思えた。
そこにいるひとたちが無意識の内に張り巡らしているであろう、静寂の魔法をまったく無視していたのだ。
かつかつと踵の高いブーツで、高らかに足音をたてながら、ゆきかうひとたちの顔を無遠慮に覗き込んだりしながら僕の方に近づいてくる。
僕はあることに気がつき、はっとなった。
おんなのひとは図書館にはそぐはない深紅の大輪の花を思わせるドレスを纏っており、さらに銀色に輝くブーツで足音を響かせていたので、否応なく人目をひくはずなのに。
そのうえ、ひとびとの顔の真っ正面に自分の顔を持って行き覗き込んでいるというのに。
誰ひとり、そのひとを見ていない。
いやむしろ、見えていないというべきなのだろう。
霊、という言葉がぼくのこころに浮かんだのだけれど、それを僕は否定する。
霊のことはよく知らないけれど、こんなに無作法ではないはずだ。
このおんなのひとは、自分がひとから見られないということを知っており、そのように振る舞っているようだと。
僕は結論づけた。
突然、そのひとの大きく黒い瞳が僕を見付ける。
僕は猛禽に見つけられた子ネズミのようにすくみ上がったが、おんなのひとは頓着せずに僕の前に近づいてきた。
そのひとは、とん、と僕の前に腰をおろすと咲き誇る花のように美しい笑顔をみせた。
「へえ」
そのひとは、クノップフが描く天使みたいに意思的な強さを持った瞳を真っ直ぐ僕に向けると、甘い吐息が頬に感じられるくらい僕に顔を近づけた。
「見えてるんだ、あたしが」
僕は、思わず答える。
じゃあやっぱり他のひとには見えないのか。
そのひとは、くすくすと楽しげに笑った。
「あたしはねえ、自分に呪いをかけたのよ」
おんなのひとの顔は僕の真っ正面にあり、裁きの天使のような整いつつ残酷さを孕んだその顔から目をそらすことができなかった。
いったいなぜ、呪いなんてかけたんだろう。
「高慢の罪を戒めるためよ」
高慢の罪だって?
「まあ、そうね。誰からも求められ、自分で望んだものは必ず手にいれるという生き方をしてたのだけど」
おんなのひとは、苦笑するように唇を歪めた。
「気がつくと全てを失ったのよ。だから、戒めのために誰からも求められず、誰も求めないようにしたのよね」
なぜ、僕には見えるんだろう。
「さあね」
そのひとは、弄ぶように僕の頬を撫で、その指先で目や鼻の輪郭をなぞり、唇を掠めていった。
「君があたしに興味をもって、あたしが君に興味をもったせいね」
僕があなたに興味をもったって?
そのひとは突然怒ったように笑みをかきけすと、すっとさらに顔を僕に近づけて。
その唇を、僕の唇に重ねた。
僕は空の彼方から、深海の底へと墜ちていくような幻惑と陶酔のような失墜感に捕らわれる。
僕は、巨大な渦に巻き込まれたみたいにぐるぐる目が回り、意識が闇に呑まれそうにになった。
突然、声をかけられる。
「閉館の時間ですよ」
目をひらくと紅いドレスのおんなのひとはおらず、代わりにひとりの青年が立っていた。
ここの図書館の司書なのだと思う。
僕は、そのひとに声をかけた。
ここの図書館は、確か女性の芸術家が亡くなった後、そのひとの蔵書を保管するためにつくられたのが始まりなんでしたよね。
「はい。正確には亡くなったのではなく失踪ですけど」
そのひとの写真かなにかありませんか?
司書のひとは、僕が読み耽っていた本の著者を紹介するページを開くと、写真を指し示す。
ああ、そこには。
あのひとがいた。
深紅のドレスに、殺戮の天使の笑み。
気がつくと僕は涙をこぼしていた。
くすくすと。
耳のそばで誰かが笑った気がした。