百物語 七十三回目「かまいたち」

子供のころの話である。
まだ小学生の低学年であったころ。
なにかと血塗れになるような怪我ばかりする子供であったようである。
頭部に傷を負うことが多く。
額に何針か縫うような傷をよくおっていた。
今では、特に傷跡も残っていないようであるが。
小学生のころは額に傷跡があったため、なんとなく前髪をたらしてそれを隠していたらしい。
幼い日の記憶がいいかげんなので定かではない。
だいたいが、不器用で臆病な子供であったらしく。
特に危険な遊びをしていた訳ではなく。
普通に遊んでいて、全身血塗れになるような怪我をしていたようなので。
まあ、ある意味怪我する才能があったのかもしれない。
怪我をしたとき、本人はただ茫然としていただけのようなのだが。
周りにいた友達がパニクッておとなを呼んでくれたので、どうも大事にはならなかったようだ。
なんにしても、あまりよく覚えておらず、後から大変だったと愚痴られる。
まあ、痛かったのだろうとは思うのだけれど。
怪我したときのことは、あまりよく覚えていない。
どちらかと言えば、その後押さえつけられ傷口を縫われるときのほうが遥かに痛くて記憶に残っている。
が、まあ、生きるというのはそういう痛いもんだからしょうがないと。
思っていたふしがある。

かまいたちとは。
ある事象に対する様々な解釈につけられた総称のように思う。
つまり、突然皮膚にすっぱり斬られた傷口ができ。
そこからあまり血はながれず、傷もはやく治るのであるが。
なぜその傷ができたのかは、よく判らないという事象である。
かまいたちは。
構太刀からきているともいう。
野鎌が付喪神に転じるともいうようだ。
また、鼬の姿を持ち、鎌のように鋭い爪を持つ妖怪であるともされ。
飯綱の一種でもあるといわれることもあるらしく。
また、旋風と関係があるとされる場合が多いようだ。
妖怪の関わる怪異としては珍しく、科学的解釈も多くある。
興味深いのは。
まあおれのかってな思いなのではあるのだろうけれど。
科学的な説明も、妖怪をもちいた説明も、同程度の説得力しかもっていないように思えることである。
怪異の事象としてははっきりしているのだが、科学的説明はどこか矛盾が残ってしまい。
事象を一意に意味沈殿させることができず。
そういう意味では妖怪を用いた説明と同じように思える。
そもそも、科学的説明というものはどこまでいってもひとつの仮説なのであり、真理の提示ではないのだから。
まあ、そういうものなんだろうけれど。
現代物理学者が量子力学に直面したときに、自分達の言ってることが実は道教の教えと大差ないのではと感じて。
神秘思想に関わってしまったという話も聞くが。
結局のところ、妖怪を使う説明も。
科学を使う説明も。
知るという山に異なる道から登ってもたどり着く頂は同じというような。
そんな感覚がなくもないのだが。
では知るとは何か。
判るとは何かといいだすと。
それは、世界と自分の間につける様々な折り合いのひとつと思え。
では、かまいたちはどのように折り合いを世界との間につけてくれるのかというと。
世界とはおれたちに、突然理不尽な痛みを与えるものであると。
まあ、そういうことのようにも思うのだ。

おれは。
何にしても、幼児期に幾つもの痛みを体に受け続けたせいか。
知るということは、痛みを伴うものだという感覚を持ってしまったように思う。
まあ、へんな話ではあるが。
世界とはそのような形でおれたちに語りかけ。
おれたちは斬り刻まれることで、世界の言葉を受けるという。
奇妙な確信めいたものを、身体に刻まれたような気がするのだ。