百物語 七十四回目「火車」

7年ほど前の話である。
毎晩終電車が過ぎ去ってから仕事場より帰るのが通例であった。
まあ、忙しかったのである。
電車がなければ、必然的にタクシーに乗って帰ることになった。
確か1号線沿いを通って帰ったように思う。
広く長い真っ直ぐな道は深夜を過ぎると車の通りもへり、ビジネス街も暗く闇に沈んで行くせいもあってか、どこか夜の河のようでもあった。
おれは、タクシーをその夜の河を渡る船のようだと思いながら、黒く闇に溶け混んだ街を眺めていたものだ。
その日。
闇の中から大きなトレーラーが、海の底から海獣が浮かび上がるように姿を現したのを見た。
始めはそれはクレーン車を積んでいるのかと思ったが。
薄明かりの中で影のように浮かび上がる巨体をよく見ているとそれが戦車であることに気付いた。
おれは、オフィス街にはとても場違いなその戦闘機械を見て。
いったい自分がどこに向かっているのであろうと。
不思議な思いにとらわれた。

火車とは。
元々は仏教説話に登場する、牛鬼、馬鬼が牽く焔につつまれた車で、死者を冥界に運ぶための車のことのようであったらしいが。
それが転じて、死体を奪う妖怪のこととなり。
焔につつまれた車を牽くのは鬼ではなく、魍魎という獣のような妖怪であったり。
猫叉のような妖怪に牽かれたようだ。
なんにしてもそれは。
この世ならざる所へと、走り去ることのできる車のようだ。
車とは、まあ空間を移動するものだ。
北村昌士ドゥルーズ経由でベルクソンのこんな言葉を引用している。
「空間のなかに並置された多様性と、持続のなかに基礎づけられる状態の多様性という、二つのタイプの多様性が混同される自由の問題」
持続というものは、時間と関わりを持つものだと思われるので、これは空間の中での自由と時間の中での自由について語っているのだと考えられる。
北村昌士は持続の中に基礎付けられる多様性を音楽に関わるものとして語るのであるが。
空間の中に並置されるには、それはそもそも局所実在を前提にする。
量子力学的に言えば、局所実在が実現するのは、観測という行為の後ということになる。
ある意味。
それはおれたちの思考そして、認識と関わるものだ。
この世を移動するのは、おれたちの思考の中を移動するようなものであろう。
しかし、観測される前であれば。
それは場の性質として波動関数によって表されるのであろうが、対象は確率的に世界に遍在するのであるのであるから。
そもそも移動することはありえない。
移動するのはむしろ。
おれたちの思考なのだといっていい。
焔は、世界を揺るがせ、おれたちの思考をふるわせ。
おそらく、弛緩したつまり認識されざる局所実在のない波動関数で表現されるような世界において。
時間と音楽をおそらくは旋回させながら。
この世と他界を。
往還するものであると思う。

おれは。
戦車という戦場で焔を吹くであろう車を見ながら。
ぼんやりと。
そこがもう、この世であらざるところのような。
あるいは。
黒い河のような道が実は冥界に繋がっているような。
そんな妄想にとらわれながら。
夜の景色を茫然と眺めていたのだった。