百物語 七十六回目「心の一法」

若き日のおれが最ものぞんでいたものは得られなかったのだが。
まあ、そのむくいのようにぐだぐたの生活を一時送っていた。
単に働いていただけといえば、そうなのだが。
特に目的も希望もなくまあ、ゾンビのように。
昼夜を問わず徹夜の連続で仕事をしていた。
出口のない暗い道をただひたすら歩いているようなものだったが。
そうしていることで、望んだものが手に入るかもしれないという。
勘違いを生きていた。

それは春先のことであった。
そのころはまだ窓の外に桜の木があり。
薄い血の色に染まった花びらが雪のように舞い。
徹夜続きで陽が夕刻には部屋を赤く燃え上がらせるように染めるその部屋で。
おれは横たわっていたのだが。
疲労しつくしていてもなぜか眠りは訪れず。
金縛りのように。
身体だけは縫い付けられたように動かないのだが。
意識だけは、針を脳内に混入させられたように明晰にさえ渡り。
無限の闇へと落ちてゆくような。
そんな感じを味わっていた。

心の一法とは二階堂流の技である。
かつて、武芸者と陰陽師や呪術師の境界はとても曖昧なところにあったように思う。
心の一法はとても奇妙な技で剣術というよりも、集団催眠に近いものを感じるのだが。
正式な記録に残されているところでは、大名行列の見物にきたひとびとを金縛りにしたとも言われる。
宮本武蔵は、記録では細川藩の剣術指南役、松山主水の一番弟子村上吉之丞との試合から逃げ出している。
この松山主水が二階堂流の使い手であり、心の一法を使いこなす。
剣豪とよばれる武蔵にしても、相手を金縛りにさせるような技と戦いたくはなかったということか。
金縛りとは。
ある種癲癇の小発作のようなものではないかと思っている。
一時的に脳内のシノプシスが異常発火する。
脳とはとても奇妙な機械であると言ってもいいだろう。
つまり、シノプシス間の発火を起こすネットワークは電磁気的な連携ではなく、伝達物質が物理的運動を行い、シノプシスの発火をコントロールする。
これは電磁気的なつまり波動的な事象を、局所実在する物質にコントロールさせているということだ。
量子脳理論を語るペンローズは、脳内で量子崩壊が発生していると主張する。
つまり、伝達物質のとおるマイクロチューブルにて波動関数の収縮が起きるというのだ。
結局のところ。
それが呪いであれ、憎しみであれ。
あるは愛であれ、哀しみであれ。
脳内では様々な潜在性がコヒーレントな状態で重なり合っており。
それが自壊していくのだが、その自壊が多元的に生じてしまうとシノプシス発火のネットワークが狂ってゆくので。

おれたちし堕ちてゆくのだ。
無限の闇へと。