百物語 八十八回目「戦争機械」

ジョン・レノンはイマジンでこのように歌っていた。

Imagine there's no countries

果たして、国家というものが無くなる日がいつになるかというのはともかくとして。
この島国は、それほど遠くない未来において消滅すると思われる。
それは、お隣の大陸にある党によって併合されるという形になるであろう。
それは既に規定路線となっている。
まずは、半島の併合から着手するであろうから、それがどのように行われるのかは見ることができるであろうけれど。
結局それはヨーロッパで行われたことの、焼き直しになるであろう。
通貨統合。
関税の撤廃。
そのような形で進められ、国際金融資本が望む形で主権国家はコントロールされる。
神のゲーム。
それは、ルールを作ることがゲームのルールとなっているゲームであるが。
国際金融資本がこのゲームのプレーヤーなのであれば、それは誰にも規制できないということになる。
ギリシャで起こったのはそういうことであった。
国家レベルの崩壊を利用して、確実に利益をあげる多国籍企業がある。
おそらく。
格差も貧困も既に国家ではなく国際金融資本によって産み出される。
つまり我々は、国家によって用意されていた数々のセフティーネットを事実上失い。
国家間の格差が消滅し、それは企業間または、個人間のものへと移される。

ジョン・レノンはまた、このように歌う。

War is over, if you want it

国家の消滅は、まだ先の話となりそうであるが。
戦争は事実上消滅しているといっても差し支えない。
元々、ドゥルーズが言うように、戦争機械は脱国家的であるし、超国家的である。
戦争機械は国家に先だって存在し、騎馬民族は大地を焼き、破壊し、死体を積み上げ、血で平原を深紅に染め上げていた。
国家はその戦闘機械をコード化し、支配し、暴力装置としてコントロール可能なものとした。
いうなれば、主権国家は、戦争という箱で暴力を、破壊を、殺戮を閉じ込めることに成功したのだ。
戦争は。
宣戦布告によって始まり、どちらかが降伏することで終結する。
また、戦時法によって規制され、非戦闘地域への攻撃は禁止されている。
戦争は、戦争機械を、あるいは剥き出しの暴力を、一定の時間の、また限定された空間内に封じ込めるものであった。
しかし、ベトナム戦争の時点で戦争の犯罪化、犯罪の戦争化と言われるようになったように。
すでに戦時法によって規定された戦争は消滅し、それはテロルとカウンターテロルの連鎖でしか無くなっている。
戦闘行為はあらゆる限定を免れ、生活空間に、日常の中へテロとして侵入してきた。
今、イラクであるいはアフガニスタンで行われていること。
もっといえば、ダルフールで、ルワンダで行われたことは。
ようするに、そいういことであり。
戦争が無くなり、解き放たれれた戦争機械の疾走があるばかりである。
国家が消滅し、戦争が消滅するということは、暴力装置が消滅し、戦争機械が自在に疾走することによって。
死と破壊が撒き散らされ。
血塗れの死体をくわえた犬たちが、おれたちの隣を歩いていく。
そんな時代が明日には訪れるということだ。

まさに。
おれたちは今、ジョン・レノンがお花畑で夢見たとおりの世界で生きることになってきており。
まあ、それはそれで幸せなことなのかもしれない。
そう思ったりもする。