百物語 九十三回目「天使」

二十年ほど前の話である。
そこは、風俗街やホテル街のはずれにあるライブハウスだった。
おれは、そこの暗闇の片隅に、踞るようにして座っていた。
大体がひとりでいるときに、ひとから話かけられるのがとても嫌いなのであるが。
知らないひとから話かけられるのは、それ以上にいやであった。
そいつは。
憑かれたように暗いひとみを剥き出しにした、まだ十代のように見える若いおとこだったが。
何を勘違いしたのか、おれに話かけてきた。
「キャニス・ルーパスって北村のバンドですよね」
おれは、曖昧に頷くだけで言葉は返さなかった。
「北村の持っているのは、ベースじゃなくてギターですよね」
夕闇よりもさらに暗いこのライブハウスの中で、さらに遠目でよくそんなこと判るよな、と思いつつ面倒なのでただ曖昧に頷いた。
「北村、ベースやめたんですか?」
知るかよ、そんなこと。
とは思ったものの、何も口にせずただ首を振ったので、そいつはあきらめたのかバンドの演奏が始まったためか、おれの側から立ち去っていった。
バンドのライブは北村さんがギターを担当していたためか、かなりぐだくだで何を演奏していたのか殆ど判らない感じであったが。
その曲の時だけ、ライブハウスに夕暮れが訪れたように、一瞬。
オレンジ色につつまれたような幻覚を感じつつ、その70年代のフォークソングのような曲を聴いた。
天使、という曲であると後で知った。

蝋燭の炎。
アルコールの匂い。
耳をそばだてて、君の声を聴いた。
もうすぐ、会えるね。
もうすぐ、そこに。
水色の天使。
翼が欲しい。

おれは。
ふと昔読んだマンガに書かれていた、「拍手とは飛べないとりの羽ばたきのようだ」という台詞を思い出した。

天使とは。
キリスト教において、どのような役割を担っていたるのかよく判っていないのであるが。
例えばヨハネの黙示録においては。
天使が喇叭を吹くと同時に、災厄がまきおこり世界が崩壊してゆく。
そのことが指し示す意味はよく判ってはいないのであるが。
ヨブ記の悪魔が、地上の情報を収集し神へと伝える役割を担っていたのとは反対に、天使すなわち御使いは神の発する何かを情報としてひとに伝える役割を担っているように思う。
天使とは、神の意志を我々に伝える仲介者ということなのだろうか。
天使は翼を持つ。
それはどういうことなのだろうか。
重力に、地上の法則に縛られることのない、天上に属するものの証明であるように思える。
天使には階層があり。
神により近い上位の天使については幾枚もの翼を持ち、それて゛体を被っていたように思う。
ケルビムや、上位の天使については。
ひとの姿からかけ離れてゆくことになる。
それは。
多頭であったり四肢が沢山あったり、翼も幾枚も持っている。
悪魔や神話に出てくる怪物たちが、異形であるのと同様に。
天使もまた、異形である。
彼らはおそらくひとというよりも、世界そのものに近く。
それは神の使命を果たすために、世界に働きかけるものであるように思う。
例えていうなれば。
天使はレトロウィルスのようなものであり、神の意志を世界へと感染させるため。
地上に訪れ、地上を変容させてゆく。
彼らの担っているものはひとには理解できぬものである証として。
彼らは異形の姿をとるのではないだろうか。

キャニス・ルーパスのベースを弾いていたのは確か、井手痛朗であったように思う。
井手痛朗はキャニスに参加してすぐ、病に倒れリタイアすることになる。
彼の歌っていたうたを時折ぼんやりと思い出す。

神の門の前で。
泣き叫んでいる。
あなたはもう、十分。
楽しんだはずだ。

神は、天使を使い、悪魔を使い、そしておれたちの命も使い。
目にも綾な物語を編み上げてゆき。
楽しんでいるのだろうか。
そう、せめて。
楽しんでいて欲しい。
そう、思うこともある。

百物語 九十二回目「夜明けの歌」

気がつくと、波打ち際にいた。
僕はいつのまにか、海辺に佇んでいた。
一体どうやってその鈍い鉛色に光る海の側まできたのか、全く記憶はない。
乳灰色に輝く泡を飛ばしながら、波が打ち寄せまた退いてゆく。
僕は、凶悪さすら感じる冷たい風を頬に受けながら、その波打ち際をゆっくりと歩いた。
白い砂浜と鉛色の海の境界に、その流木があった。
巨人の骨のように白くねじくれているその流木は、ひどく孤独で孤立している気がする。
ふいに。
僕は誰かに呼ばれたような気がして振り向いたが、もちろんそこには誰もおらず、灰が積もったような砂浜が延々と広がっているばかりだ。
僕はその寒々とした海辺を離れ、砂浜の中に孤島のように取り残されている駐車場の車に乗った。
夢の中のことのようにぼんやりとした記憶であるが、それはどうやら僕の車のようだ。
そこは、繭の中のようにしんとしていると思いながら、僕はハンドルを手にし運転をする。
僕は霧に包まれている記憶を手探りでまさぐってゆきながら、道をたどってゆく。
僕はそれが、あなたの部屋へと向かう道であることを、かろうじて思い出した。
あなたの部屋にたどりついた僕は車から降りると、あなたの部屋の扉の前に立つ。
それは、大きく頑丈そうな鉄の扉だった。
その扉は棺桶の蓋を閉じるときのような軋み音をたてながら、重々しく開いていく。
洞窟のように薄暗いあなたの部屋には、誰もいなかった。
静寂の匂いに満ちたその部屋の中へと、僕は足を踏み入れる。
そこにはあなたの気配どころか。
ひとが住んでいた気配すらなく。
死のような灰色の薄闇だけが、重くあたりを支配していたのだが。
僕はその部屋の中に、白いものを見つけ側にゆく。
それは、あの流木だった。
白い砂浜と鉛色の海の境界で、波に洗われていた巨人の骨のような流木。
僕は跪くと、その白い表面をそっと指でなぞってみる。
その表面は想像していたものとはことなり、まるで生き物の皮膚のように暖かかった。
僕は、その表面へそっと頬をよせる。
まるで呼吸しているような息吹を感じて、僕はその表面に口づけした。
どくりと。
鼓動のようなものが、ずっと遠くの場所で動き始めた気配を僕は感じながら。
幾度も、幾度も。
繰り返し、繰り返し。
口づけをして。
抱き締めて。
やがて部屋は夜空のような闇の中へと沈んでゆき、僕は固形の闇に封印されるような眠りへとのみ込まれていった。

僕が目覚めたとき。
幾千もの刃となった光が部屋を蹂躙している様を見て、夜明けの訪れを知った。
僕が抱き締めていたはずの流木は粉々に砕けており、まるで朝の日差しに切り刻まれたようである。
そして、その金色に世界を染め上げた朝日の中で、傲慢な美の女神の彫像のように立つあなたがいた。
僕は声をかけようとして、まるで夢の中にいるように、声をだすことが出来ないことに気がつく。
僕にできたことは、その姿を目で追い続けることだけだった。
殺戮のワルキューレのように、美しい瞳を一瞬侮蔑の色に曇らせてあなたは僕を見る。
ただ戸惑ったような一瞥をくれただけで、あなたは無言のまま窓を開くと、天使のような翼を広げ朝の空へ向かってとびたった。
僕は、その蒼い空を何処までも何処までも上昇していくあなたの姿を。
ただただ、ずっと。
見つめていた。

 

百物語 九十一回目「悪魔」

五年ほど前の話。
あるひとが、プロテスタントの洗礼を受けたというので、話を聞きにいった。
「わたしは、聖書を読んで愛されていることに気がついたのです」
おれは、ひととして多くのものが欠落しているせいか。
そもそも、神の愛というものを未だに理解できていないせいなのか。
まあ、そういうものなのかという感想しか抱かなかった。
「わたしは、その大きな愛に包まれていることに気がついたとき」
そのときおれは。
そのひとが重ねる言葉を、遠い物語を聞くような気持ちで聞いていた。
「わたしは、声をあげて泣きました」

キリスト教を難解なものにしているのは、悪魔の存在ではないかとも思える。
神は全能であるのであれば。
なぜ自らに背くものをつくったりするのか。
わざわざ自らに背くものをつくった上、ひとを唆し罪を犯させるようなことをするのか。
もしかすると。
悪魔は単に神の意思をそのまま実行しているのかもしれない。
そうであるのなら。
神はなぜ、わざわざひとに罪を行わせ、我が子によってその罪を購うということした。
なぜ許すために、罪を犯させたのか。
学ばせて、より高次な世界へと救済するためなのか。
けれども。
神の門は狭く、全てのものが救済される訳ではない。
それでは信仰はひとの自由意思に委ね、信仰を貫いたものを救うためなのか。
ヨブ記に登場するヨブは。
悪魔と賭けをした神によって激しい業苦を与えられる。
とても信仰にあつく、戒律を守っていたにも関わらず。
そもそも。
神が全能であるならば。
悪魔との賭けの結果も判っていたはずである。
ひとは。
救われることもあれば。
業苦を与えられることもある。
信仰とは関わりなく。

悪魔とて神の僕であり。
その意思を忠実に実行しているにすぎないはずだ。
神は全知全能であるならば。
全ては定められたことに違いない。
ある意味それは、芝居のようなものではないか。
救われるものも、救われぬものも。
神に背くものすら、神の意思にそうものなら。
おれたちは神の描いた物語を演じるアクターなのではないか。
それは。
おそらくスピノザがいうように。
無限の可能性の表現なのだ。
だとすれば。
悪魔の為すことであれ。
神の無限の可能性の表現であると。
言えるのであろう。
おれたちのできるのは。
その様々な物語がおりなす妙技に。
賛辞を送ることぐらいなのか。

感謝の涙をながしながら。
賛辞を送ること。
おれたちにできることは、そんなことだと。
思ったりもする。

 

百物語 九十回目「幽霊」

おれは結局のところ。
書くことあるいは、描くことをつうじて。
言語化される以前の世界。
言葉によって構築される以前の意識へと。
遡ってゆくことを望んでいたのではないかと思う。
それはいうなれば。
豊穣なカオスへの回帰を夢見ていたということであろうか。

幽霊とは、デリダが使っていた言葉のひとつである。
幽霊とは複数存在するものとされる。
ただひとつの神ではなく。
複数の幽霊へ。
不在神学では。
論理体系が不可避的に呼び込むであろう綻びに注目する。
その唯一の綻びこそが、超越を、神を呼び込むことになるであろうか。
それに対して幽霊は。
郵便のことから話さねばならない。
郵便は届かないところから、語り始めなければならない。
わたしからあなたへと投げた言葉は。
届かないかもしれない。
それは失われるかもしれない。
または遅れて、ふいに届くかもしれない。
もしくは差し出したわたしの元へと、返ってくるかもしれない。
そもそも。
あなたという他者に。
投げた言葉が届くということが、ありえるのだろうか。
それは、否定神学における唯一の亀裂ではなく。
無数に裂けた傷口なのであり。
それは無数に浮遊するであろう、幽霊なのだ。

わたしからあなたへと投げた言葉は。
無数の可能性の中を浮遊していくのであろう。
それは、潜在性の領域のなかで、現実化しえないままひとつの裂け目として消失してゆく、幽霊となり。
全体は縫合されることなく。
わたしの意識は言語化以前の領域へと差し戻されることになるように思える。

幽霊とは。
わたしからあなたへと投げてゆきながら受け取られることもないまま消失していくであろう数々の可能性であり。
失われるであろう様々であり。
意識ににとどくことのない、なにものかでもある。

 

百物語 八十九回目「ポルポト」

西原理恵子がイラストを書く場合、ほぼ間違いなく元の文章と全く関係の無いカットを描くのであるが、おそらく意図的になのであろうが、元の文章を喰ってしまうようなカットを描いている。
唯一、西原のカットと互角に存在感を示すことができたのは、アジアパー伝の鴨志田穣くらいのものではないだろうか。
このアジアパー伝の中に、ポルポトNO2であったイエン・サリが登場する。
本当なのかどうかは判らないが、西原はイエン・サリに会ったと語っていた。
まるでおれの記憶の中では、夢の中の風景を描いているような、あるいは霧につつまれた白日夢の風景を描いているようなカットであったと思う。
西原は、イエン・サリの手が小さかったというようなことを語っていたように思う。

ポルポトカンボジアでオートジェノサイドを行ったのは多分おれがまだ高校生くらいのことであったと思う。
おれがことの全貌をおぼろげに知ったのは、学生になってからであっただろうか。
400万を殺したとされているが、実態はよく知らない。
実はそんなに殺してはいないという左翼思想家を、笠井潔はボディーカウンターとこきおろしていた。
多分、問題はそんなところにあるのではないだろう。
SPKというロック・バンドがいる。
泌尿器科の略称をバンド名に据えた彼らは、初期は徹底的にアバンギャルドサウンドを作り出していたが。
まあ当時の(1980年代の終わりから1990年代の半ばくらいまで)バンドがほとんどそうであったように。
SPKもまた、ヒップ・ホップやダンス・ミュージックへと方向転換してゆく。
そのSPKがカンボジアというダンス・ミュージックでこんな歌詞を残している。

「そして、カンボジア石器時代へと戻っていった」

ポルポトは、あらゆるものを撤廃した。
学校、病院をはじめとするあらゆる公共施設、そして貨幣も撤廃した。
文化人は皆殺しにされた。
まあ、それだけではなく、さらに多くのひとびとも殺された。
殺戮に対する情熱は、キリスト教徒と比較してもそれほど遜色はない。
もちろん残虐さや殺した数ではキリスト教徒には劣るであろうが。
その熱心さや、殺戮への欲望は同じレベルではないだろうか。

後、いくつかの逸話が残っているが。
例えば、ポルポトの兵士が死体の内臓を引きずり出し、それを見ながら。
「これを食べると鳥目に効くんだ」
と言ったとか。
あるいは、死体から引きずり出した内臓にワインをかけながら、こう言ったという。
「これをかけると美味いんだ」
このへんは、今となっては検証しがたい部分であり。
実態はよく知らない。
ポルポトにはガス室などなかった。
ナチスはいかに効率よく虐殺を行うかを、研究し実践していたが。
ポルポトは単純に棍棒で殴り殺してゆき、死体は穴へと放り込んで言った。

スターリンは歴史上最も大量の虐殺を行ったと思う。
数的に言えばヒトラーを子供扱いできるのではないだろうか。
共産主義というものが不可避的にもたらすものが、虐殺ともとれるのだが。
けれどポルポトにはそうしたものには回収しきれないような異様さがつきまとう。
笠井潔は、浅間山荘からポルポトへと至る観念の倒錯を緻密に子細に分析している。
笠井潔はそれを自己の問題としてとらえたからなのだろうが。
しかし、実際は少し違うものを感じる。
そもそも人類の歴史の中になぜ、これほど大量の虐殺があるのだろうか。
それは、バタイユの語る蕩尽やポトラッチなどでは説明しきれないものがあると思える。
政治家の栗本慎一郎が語ったこの言葉が一番、感覚的にはしっくりする。

ポルポトは、たまたまひとを殺してみたら気持ちよかった」

 

百物語 八十八回目「戦争機械」

ジョン・レノンはイマジンでこのように歌っていた。

Imagine there's no countries

果たして、国家というものが無くなる日がいつになるかというのはともかくとして。
この島国は、それほど遠くない未来において消滅すると思われる。
それは、お隣の大陸にある党によって併合されるという形になるであろう。
それは既に規定路線となっている。
まずは、半島の併合から着手するであろうから、それがどのように行われるのかは見ることができるであろうけれど。
結局それはヨーロッパで行われたことの、焼き直しになるであろう。
通貨統合。
関税の撤廃。
そのような形で進められ、国際金融資本が望む形で主権国家はコントロールされる。
神のゲーム。
それは、ルールを作ることがゲームのルールとなっているゲームであるが。
国際金融資本がこのゲームのプレーヤーなのであれば、それは誰にも規制できないということになる。
ギリシャで起こったのはそういうことであった。
国家レベルの崩壊を利用して、確実に利益をあげる多国籍企業がある。
おそらく。
格差も貧困も既に国家ではなく国際金融資本によって産み出される。
つまり我々は、国家によって用意されていた数々のセフティーネットを事実上失い。
国家間の格差が消滅し、それは企業間または、個人間のものへと移される。

ジョン・レノンはまた、このように歌う。

War is over, if you want it

国家の消滅は、まだ先の話となりそうであるが。
戦争は事実上消滅しているといっても差し支えない。
元々、ドゥルーズが言うように、戦争機械は脱国家的であるし、超国家的である。
戦争機械は国家に先だって存在し、騎馬民族は大地を焼き、破壊し、死体を積み上げ、血で平原を深紅に染め上げていた。
国家はその戦闘機械をコード化し、支配し、暴力装置としてコントロール可能なものとした。
いうなれば、主権国家は、戦争という箱で暴力を、破壊を、殺戮を閉じ込めることに成功したのだ。
戦争は。
宣戦布告によって始まり、どちらかが降伏することで終結する。
また、戦時法によって規制され、非戦闘地域への攻撃は禁止されている。
戦争は、戦争機械を、あるいは剥き出しの暴力を、一定の時間の、また限定された空間内に封じ込めるものであった。
しかし、ベトナム戦争の時点で戦争の犯罪化、犯罪の戦争化と言われるようになったように。
すでに戦時法によって規定された戦争は消滅し、それはテロルとカウンターテロルの連鎖でしか無くなっている。
戦闘行為はあらゆる限定を免れ、生活空間に、日常の中へテロとして侵入してきた。
今、イラクであるいはアフガニスタンで行われていること。
もっといえば、ダルフールで、ルワンダで行われたことは。
ようするに、そいういことであり。
戦争が無くなり、解き放たれれた戦争機械の疾走があるばかりである。
国家が消滅し、戦争が消滅するということは、暴力装置が消滅し、戦争機械が自在に疾走することによって。
死と破壊が撒き散らされ。
血塗れの死体をくわえた犬たちが、おれたちの隣を歩いていく。
そんな時代が明日には訪れるということだ。

まさに。
おれたちは今、ジョン・レノンがお花畑で夢見たとおりの世界で生きることになってきており。
まあ、それはそれで幸せなことなのかもしれない。
そう思ったりもする。

 

 

百物語 八十七回目「ドン・ファン」

子供のころ、よく熱をだした。
そういう体質であったようだ。
中学生くらいまでは、一週間くらい高熱が続くことはよくあった。
熱がでている間は、世界が変容し歪んで感じられた。
深夜、暗闇の中で高熱に包まれていると、生きることがそもそも暗い地下の牢獄に閉ざされているような気分になった。
まあ、そういうものなのだろうとも思うが。
また、自分ができそこないの、まともに生きる力のないがらくたのようにも感じられた。
そうした時、自分の死を思い描いた。
こうして。
苦痛だけが身近なものとしてあり。
このままゆっくりと衰弱して闇にのまれるのだろうと。
そんなことを考えていると。
死の恐怖がまるで不意な漆黒の来訪者のように、おれのそばにくるのだ。
子供のころの死の恐怖は、どこか剥き出しの容赦のなさがあった。
あらゆる希望を、望みを、喜びを喰い荒し醜い絶望の汚物へと変化させてしまい。
そこにも逃げる術はなく。
その夜空に空いた漆黒の穴みたいな来訪者を、高熱がもたらす息をすることすら苦痛でしかな状態でもてなし。
ただただ、立ち去ってくれるのを、待つしかなかった。

カルロス・カスタネダは、ドン・ファンと出会い、その教えを本に残している。
ドン ・ファンはメキシコのヤキ・インディアンの呪術師である。
ドン・ファンは、カスタネダを教え導く際に、ペヨーテを使ったりしていた。
これはメスカリンを含む幻覚作用のある植物であったようだ。
ドン・ファンは、ドラッグのもたらす意識の変容を用いて、意識の彼方へ向かおうとする。
これは、その後ドラッグ・カルチャーを作り出してゆく。
1970年代のアメリカのフラワー・チルドレンやヒッピーたちの根底にはカスタネダの語る神秘体験があった。
ただ、それはドン・ファンの教えの本質ではない。
単にドラッグは梯子のようなもので、問題は高みに出てからにある。
どうやって出るかは、主要なことではない。
ドン・ファンは、死に学べと語る。
以下はカスタネダドン・ファンと会話する文章の引用である。

「死は敵ではない、たとえそう見える としてもな。死は人間が考えているよう な破壊者でないんだ」
「じゃ、いったいなんだい? 」
「呪術師に言わせれば、死は唯一、わしらが相手にする価値のあるものだ」
彼は答えた。
「死はわしらに挑みかかるのさ。普通 の人間にしろ呪術にしろ、わしらは、その挑戦を受けるように生まれついている。ただ呪術師はそのことを知っているが、ふつうの人間は知らないんだ」

死とは何か。
ケン・ウィルバーの意識のスペクタルによれば、それもまたひとつの心的現象ということになる。
死そのものを、経験することはできない。
他者そのものにたどり着けないのと、同じことであり、それは無限遠にあるが。
それは真っ黒な恐怖と絶望を纏っている。
そして、それはおれたちに挑みかかる。
それはこころの動きのひとつであるが、そこから学ぶべきだとドン・ファンは言う。
では。
不安と恐怖から何を学べというのか。
ドン・ファンは詩を引用する。

この飽くことを知らぬ、執拗な死が
この生きながらの死が
神よ、あなたを滅ぼしてゆく
あなたの精妙きわまりない細工の中で
バラの中で
石の中で
不朽の星々のなかで
そして歌に
夢に
目を射る色彩に照らされる
火のように燃え尽きたうつしみのなかで

そして神よ、あなたはその場所 で
無窮の時を、死につづけてきたのだろう
われらが何も知らぬうちに
あなたの灰、かけら、澱
でもあなたはまだそこにいる
自らの光に欺かれる星のように 星なき光はわれらに達し
限りなき破滅を
われらから隠し続ける

ドン・ファンはこの詩を語り、ここに本質があるという。
結局、恐怖と不安も言葉なのか。
あるいはその亀裂なのか。
そこから脱するための、出口なのか。