百物語 九十一回目「悪魔」

五年ほど前の話。
あるひとが、プロテスタントの洗礼を受けたというので、話を聞きにいった。
「わたしは、聖書を読んで愛されていることに気がついたのです」
おれは、ひととして多くのものが欠落しているせいか。
そもそも、神の愛というものを未だに理解できていないせいなのか。
まあ、そういうものなのかという感想しか抱かなかった。
「わたしは、その大きな愛に包まれていることに気がついたとき」
そのときおれは。
そのひとが重ねる言葉を、遠い物語を聞くような気持ちで聞いていた。
「わたしは、声をあげて泣きました」

キリスト教を難解なものにしているのは、悪魔の存在ではないかとも思える。
神は全能であるのであれば。
なぜ自らに背くものをつくったりするのか。
わざわざ自らに背くものをつくった上、ひとを唆し罪を犯させるようなことをするのか。
もしかすると。
悪魔は単に神の意思をそのまま実行しているのかもしれない。
そうであるのなら。
神はなぜ、わざわざひとに罪を行わせ、我が子によってその罪を購うということした。
なぜ許すために、罪を犯させたのか。
学ばせて、より高次な世界へと救済するためなのか。
けれども。
神の門は狭く、全てのものが救済される訳ではない。
それでは信仰はひとの自由意思に委ね、信仰を貫いたものを救うためなのか。
ヨブ記に登場するヨブは。
悪魔と賭けをした神によって激しい業苦を与えられる。
とても信仰にあつく、戒律を守っていたにも関わらず。
そもそも。
神が全能であるならば。
悪魔との賭けの結果も判っていたはずである。
ひとは。
救われることもあれば。
業苦を与えられることもある。
信仰とは関わりなく。

悪魔とて神の僕であり。
その意思を忠実に実行しているにすぎないはずだ。
神は全知全能であるならば。
全ては定められたことに違いない。
ある意味それは、芝居のようなものではないか。
救われるものも、救われぬものも。
神に背くものすら、神の意思にそうものなら。
おれたちは神の描いた物語を演じるアクターなのではないか。
それは。
おそらくスピノザがいうように。
無限の可能性の表現なのだ。
だとすれば。
悪魔の為すことであれ。
神の無限の可能性の表現であると。
言えるのであろう。
おれたちのできるのは。
その様々な物語がおりなす妙技に。
賛辞を送ることぐらいなのか。

感謝の涙をながしながら。
賛辞を送ること。
おれたちにできることは、そんなことだと。
思ったりもする。