百物語 四十六回目「ジル・ド・レエ」

学生のころの話である。
おれは、はじめて小説をひとつ書き上げた。
当時笠井潔の作家の行きつくところは自殺か政治家という言葉を知っていたわけではないが、文学というものにできるだけ関わりたくなかったおれとしては奇妙なことをしたものであるが。
自作の朗読会というのをしてみたかったのである。
どこかでカフカは審判を書き上げたときに朗読会をして。
その時にカフカは読みながら笑いだしてしまい。
聴いているひとも笑いころげて結局最後まで読めなかったというのを読んだので。
おれも似たようなことをしてみようと思ったのだ。
で、参加者を無理矢理集め。
彼らには必ず楽器を持ってくるように言い聞かせた。
大学の絵画サークルでアトリエとして使っていた部屋は。
元々音楽室であったためしっかりした防音設備が整っていたのでかなり大音量で演奏しても平気だった。
結局朗読会は、即興演奏会のような。
むしろ何かの儀式のような混沌とした。
得体の知れぬ神秘性を剥奪された密儀のような。
不可思議な一夜となった。

ジル・ド・レエは。
エリザベス・バートリーとは対照的に、とてもにんげん的だといえる。
にんげんと言っても。
20世紀の初頭に起きた世界大戦とともに失われていった。
いわゆるロマン主義的な。
神秘的な超越的なものに向かって自己の全存在を投企するような。
そんなにんげんである。
ジル・ド・レエは幾度も幼児虐殺を繰り返したが。
殺す前には、その子供を深く愛し。
殺した後には悔恨の涙を流したという。
まるで麻薬に溺れるように、愛と憎しみに酔いしれていたのか。
エリザベス・バートリーがただ黙々と。
機械的に殺戮したのとは、あまりに対照的に。
激烈な感情の渦に呑み込まれていったのだと思われる。
ジル・ド・レエには魔法使いが付き添っていた。
もしかしたら、彼の行った残虐行為は悪魔と取引するためか、なんらかの降霊術と関係していたのか。
そもそも彼は。
ジャンヌ・ダルクの副官として幾度も激烈な戦場を潜り抜け。
絶望も狂気も、そしてその果てにある超越的瞬間も味わいつくし。
あるいは、神をも見たと思ったのかもしれない。
そして繰り返す幼児虐殺の果てにも。
彼の見た神の似姿があったのかもしれない。

下山の仕方という言葉がある。
エベレストの登山でいうと、山頂へ昇りつめるよりも遥かに下山のほうが危険で困難な仕事であるのだが。
そこに注目するひとはいない。
多くのひとにとって、昇りつめれば終わりなのだ。
人生における下山に失敗したのではと思われるひとは多い。
ジル・ド・レエもまたそのひとりではと思う。

おれたちは。
もちろん恩寵としての超越を欲したが。
山になんて昇ることは無かった。
ただアナーキーな平原を駆け続けただけなような気もする。

 

 

 

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