百物語 九十二回目「夜明けの歌」

気がつくと、波打ち際にいた。
僕はいつのまにか、海辺に佇んでいた。
一体どうやってその鈍い鉛色に光る海の側まできたのか、全く記憶はない。
乳灰色に輝く泡を飛ばしながら、波が打ち寄せまた退いてゆく。
僕は、凶悪さすら感じる冷たい風を頬に受けながら、その波打ち際をゆっくりと歩いた。
白い砂浜と鉛色の海の境界に、その流木があった。
巨人の骨のように白くねじくれているその流木は、ひどく孤独で孤立している気がする。
ふいに。
僕は誰かに呼ばれたような気がして振り向いたが、もちろんそこには誰もおらず、灰が積もったような砂浜が延々と広がっているばかりだ。
僕はその寒々とした海辺を離れ、砂浜の中に孤島のように取り残されている駐車場の車に乗った。
夢の中のことのようにぼんやりとした記憶であるが、それはどうやら僕の車のようだ。
そこは、繭の中のようにしんとしていると思いながら、僕はハンドルを手にし運転をする。
僕は霧に包まれている記憶を手探りでまさぐってゆきながら、道をたどってゆく。
僕はそれが、あなたの部屋へと向かう道であることを、かろうじて思い出した。
あなたの部屋にたどりついた僕は車から降りると、あなたの部屋の扉の前に立つ。
それは、大きく頑丈そうな鉄の扉だった。
その扉は棺桶の蓋を閉じるときのような軋み音をたてながら、重々しく開いていく。
洞窟のように薄暗いあなたの部屋には、誰もいなかった。
静寂の匂いに満ちたその部屋の中へと、僕は足を踏み入れる。
そこにはあなたの気配どころか。
ひとが住んでいた気配すらなく。
死のような灰色の薄闇だけが、重くあたりを支配していたのだが。
僕はその部屋の中に、白いものを見つけ側にゆく。
それは、あの流木だった。
白い砂浜と鉛色の海の境界で、波に洗われていた巨人の骨のような流木。
僕は跪くと、その白い表面をそっと指でなぞってみる。
その表面は想像していたものとはことなり、まるで生き物の皮膚のように暖かかった。
僕は、その表面へそっと頬をよせる。
まるで呼吸しているような息吹を感じて、僕はその表面に口づけした。
どくりと。
鼓動のようなものが、ずっと遠くの場所で動き始めた気配を僕は感じながら。
幾度も、幾度も。
繰り返し、繰り返し。
口づけをして。
抱き締めて。
やがて部屋は夜空のような闇の中へと沈んでゆき、僕は固形の闇に封印されるような眠りへとのみ込まれていった。

僕が目覚めたとき。
幾千もの刃となった光が部屋を蹂躙している様を見て、夜明けの訪れを知った。
僕が抱き締めていたはずの流木は粉々に砕けており、まるで朝の日差しに切り刻まれたようである。
そして、その金色に世界を染め上げた朝日の中で、傲慢な美の女神の彫像のように立つあなたがいた。
僕は声をかけようとして、まるで夢の中にいるように、声をだすことが出来ないことに気がつく。
僕にできたことは、その姿を目で追い続けることだけだった。
殺戮のワルキューレのように、美しい瞳を一瞬侮蔑の色に曇らせてあなたは僕を見る。
ただ戸惑ったような一瞥をくれただけで、あなたは無言のまま窓を開くと、天使のような翼を広げ朝の空へ向かってとびたった。
僕は、その蒼い空を何処までも何処までも上昇していくあなたの姿を。
ただただ、ずっと。
見つめていた。