百物語 六十一回目「野狐」

数年前の話である。
住んでいるところの近くに、それなりに有名らしい密教の寺院があるのだが。
その寺院が何年かに一度、秘蔵の本尊を公開することがあり。
まあ、せっかくだから見に行ってみようと思い、その寺まで行ってみた。
思ったより大きな寺院であり。
インドのシヴァ神などを思わせる姿の神を描いたタペストリなどもあって。
そこそこ見応えのあるお寺なのだが。
なぜかぼけ封じの弥勒菩薩が祀られているのはともかくとして。
何より驚いたことに、お稲荷さんが祀られていたことだ。
そのあたりの繋がり方がよく判らないというか。
寺の中に鳥居があって、狐を神体とした神社があるというのは。
おれの常識からは少しはずれていて。
なんなんだろうなと、思うものがあった。

野狐というと。
狐憑きとは、この野狐が憑くものとして知られている。
一説によると。
そもそも狐がなぜ憑くかというのは。
狐憑きを調伏していた真言密教の流れをくむ修験者が、憑く妖怪をダキニの眷属として扱ったことから始まったともゆう。
ダキニの眷属とは元々ジャッカルであり野干なのであるけれど。
この島国にはジャッカルがそもそもいないこともあり、野干がなまって野狐となって。
狐が憑くことになったともいう。
なんにしても。
ダキニ、つまり荼枳尼の眷属として狐は扱われるようだ。
場合によっては、狐は荼枳尼自身の化身ともされるようだが、まあなんにせよ、それはこの島国独特の話である。
ダキニはカーリーの侍女であり、半人半神の女神でもある。
恐るべき殺戮と破壊の女神の僕である女神が、いつの間にか狐に乗った天女として稲荷信仰と関わるようになるというのは不思議でもあるのだが。
ダキニはまた、真言立川流においても信仰の対象とされていたように思う。
立川流は、性行為を術法の中に組み込んでいると聞く。
それはインドの歓喜天やヨガのリンガヨーニなど、性行為を聖性に繋げてゆく信仰と関わっているような気がする。
さて、前回の犬神はどうも男性的な感じがしたのだが。
狐はおんなに関わり、しかもその奥には性愛の秘技とも何か関わりがあるようである。
そもそも、神話的社会ではおんなは異界に繋がるものとされる。
それは、子を生むからであり、神話によっては子は死者の世界からやってくるものであるとされるため、見方によってはおんなは神話的に見ると死者の世界と繋がっていることになる。
そして、その異界へと往還する手立てとして性愛の秘技を見ることも可能ではないだろうか。
では、おんなや性行為が異界を呼び寄せるのかというと。
それは少し違うようにも思う。
ひとは、その根源的なところにおいて、異界と現世という区別を設けるようなのだが。
その異界のメタファーとしては、本来何ものであってもいいのだ。
差異があるところに。
異界とのメタファーが降臨する。
野狐はまあ、そのひとつとして言ってもいいのだろう。

結局のところ、密教の寺院の中に、稲荷大社があったとしても。
要は、差異の網の目によって異界のメタファーを創り上げることこそが、ある意味寺院の役割なんだろうから。
その中に充填されるものは、交換可能であるし、流通可能であると言ってもいいのだろうと思う。
まあ、ひととはそのように。
差異の網の目を織り上げてゆき、世界をもそれで織り上げてゆく存在なのだと。
そんなふうに思うのである。

 

 

 

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