百物語 六十回目「犬神」

学生のころの話である。
おれと、うそをつくのが好きな彼と。
哲学好きの後輩と三人で話していた。
「僕は、全てのことを説明できますよ」
哲学好きの後輩は、こう言った。
「ほう」
おれは、彼と目を見合わせ、まあそういうものかと頷いたのだが。
彼は表情を無くしていた。
いつもの。
本当のことを語るときの表情になっていた。
おいおい、とおれは思ったが。
彼は、こう語りはじめた。
「じゃあ聞くけどな」
彼は、顔にも声にも表情を無くしたまま、語り続ける。
「なんでひとはな」
哲学好きの後輩は、基本的にいいやつなのでまじめな顔をして聞いているが。
おれは多分ろくでもない話になる予感がして、うんざりしていた。
「呪いの言葉を書いて、床下に埋めたりするんや」
おれは、おいおいと思って後輩の顔を見たが、後輩はまじめな顔をして頷いていた。
まあ、結果的には正しい対応だったのかもしれない。
「ひとの認識というものは、空間を象徴的に意味づけたり、構成したりします。そこには、呪詛をはじめとする様々なひとの負の感情、あるいは聖性のような感情も付加されていくことになります。空間はある意味象徴的に身体化され、観念化されるのです」
彼の聞いたのは物凄く個人的で具体的なことなのだが。
これまたひどく抽象的で一般的な回答へと回収されてゆき。
まあ、回答にはもう少し専門的なジャーゴンも付加されていったように思うが。
なんだか全く噛み合っていないような。
凄くはまっているような。
とりあえず、彼は納得したようでその話は一旦終結した。

犬神は。
いわゆる蠱毒、あるいは蠱術と呼ばれるたぐいのものである。
元々は中国の呪術であったが、日本に伝わったようだ。
それがいわゆる陰陽道であるイザナギ流とまざりあったりもしたようだ。
詳細はよくは知らない。
憑き物筋とよばれるものと、犬神憑きが関係している場合もあるようだ。
呪術とは。
世界と精神の関係の有り様の問題である気がしている。
昔読んだ本に、「分裂病の少女の手記」という本がある。
この本の中に記述されている言葉に、事物との魔法的連関という言葉があった。
世界の中のある動きが。
少女の精神と連動し、それが恐怖となったり救いとなったりする。
世界と自己の境界が崩れてゆき、世界でおこることが精神世界でおこることであり、精神世界でおこることはまた、世界でおこることとなってゆくのだ。
いうなれば、蠱術とは。
精神の中にある怒り、憎しみ、哀しみのような負の感情を。
動物を使って増幅し、強化して。
それを世界の動きと連動させようという。
そんな術法であると思う。
ひとは。
こころの奥底は世界と連動しているという不思議な確信を持っており。
蠱術とはその確信をついているものだと思える。
ただ、それを使うということは。
世界を毒で満たすのであるから。
その術者のこころも毒で満ちるであろうと。
おれは単純にそう思う。
だから、呪いの歌をうたうものは。
返しの風に吹かれるに違いないと。
そんなふうに思う。

おれはそれからずっと後に。
彼からその呪いの言葉を床下に埋める件についての詳細を聞かされることになるのだが。
まあ、例によって実にうんざりするやりきれない話をした後に。
「なんでそんなことをするのか、おれは知りたかったんや」
と締めくくったのだ。
おれは哲学好きの後輩ほどいいやつじゃあないので。
「知るかよ、そんなもの」
とそっけない答えをしたと思うが。
まあ、話くらいはまじめに聞いていたように思う。

 

 

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