百物語 三十六回目「天国と地獄」

それは5年ほど前のこと。
プロテスタントの牧師と話をしたときのことである。
おれは前々から聞いてみたいと思っていたことを、牧師に訊ねてみた。
それは。
「イエスは死んで生き返ったということは、今もどこかにいるのですよね。どこにいてるのでしょう?」
多分、あまりに質問がくだらなすぎたせいか。
牧師は、少しあきれた顔になったように思う。
それとも、こちらの意図をはかりかねて不審に思ったのかもしれない。
おれとしてはとてもナイーブな質問をしたつもりだったのだが。
あまりにナイーブすぎたというか。
率直に言えば、まぬけな質問だったのかもしれない。
牧師は少し複雑な笑みを見せて、こんなこと言ったように思う。
「天国に。と言うひともいるようですけれどね」
結局、牧師がどんな回答をしたのかは、すっかり忘れてしまった。
まあ、どうでもいい質問にそれなりに答えてくれたように思うのだが。
キリスト教自体をあまりよく理解できていないおれとしては、その回答も理解できなかったのだろうと思う。

そもそも、天国や地獄というものは。
宗教とはさほど関係ない。
それは教会や寺院が、経営的な戦略として、現世的な利益を信者に約束するためのもので。
まあ、信仰や神学とは無関係と言ってもいい。
そもそも、聖書には天国や地獄についての記述はないらしい。
また、仏教についてもブッダの教えの中に天国や地獄は登場しないようだ。
仏教では六道というものが説かれているようだが。
その六道は、この世をどのように生きるかによって決まるもので。
それぞれが別世界というわけではなく、全てこの世のことだ。
さて、問題はこの世の他に世界があるということを認めるかどうかという問題になってくるかと思う。
例えば。
エヴァレットの多世界解釈に基づけば、世界自体が無数に存在するのだから。
そのうちのひとつが、天国であったり地獄であったりしてもいいんじゃないの。
ということなんだけれど。
無数に存在する平行世界は。
あくまでも、「この世」の無数のバリエーションにしかすぎない。
この世は、無限の可能性ほ秘めているが。
この世とは別の世があることを指し示すことではない。

トランス・パーソナル心理学の概念にインターアクションというものがある。
それは唯物論と唯心論の併合を目指したといわれていて。
世界というのは、おれたちのこころと物自体界が相互に交信することによって生み出されるものだということだ。
まあ、それはともかくとして。
結局のところ世界とは、おれたちがそのようなものだと思うところのものでしかなく。
他世界があるとすれば、他のこころが存在する必要があるのだろうが。
あくまでも。
おれたちのこころが繋がる世界がこの世であるとするならば。
「あの世」におれたちのこころが繋がったとしたら、それが「この世」になる。
世界から出ることはかなわない。
なぜなら、世界から出たとしてもその出たはずの地点からまた、世界が形成されるのであって。
あの世とは夢想することだけが可能な場所である。