百物語 四十五回目「エリザベート・バートリ」

学生のころの話である。
よく、先輩の下宿にいりびたっていた。
そこは、幾人かが常時いる感じでおれたちがたむろする場所と化していた。
先輩はいいひとなので。
たまに。
「カレー作ったけど食うか?」
とか言ってカレーをご馳走してくれたり。
酒を持っていくとあてを作ってくれたり。
気配りのきく器用なひとでもあった。
その夜。
そいつは、くるなりこう言った。
「すげえ怖いめにあったんですよ」
おれは苦笑しながら何があったのかを問うた。
だいたいこんな感じのできごとであったと思う。
住宅街を歩いていたはずなのだが。
道に迷って、気がつくと物凄く寂れた田舎の村みたいなところに迷い込んでしまい。
ひとが住んでいるような気配がないバラックのような住居が立ち並び。
ゴーストタウンのような廃墟のような場所で。
それが自分の住む街のすぐそばにあり、そんなところに迷い込んでしまうなど、悪夢のような。
異次元に迷い込んだような。
ぞっとする体験であったらしい。
慌てて逃げ出してきたようだが。
結局のところ、その恐怖とは何であったかというのは。
それはあたかもおれたちの見ている現実の虚飾が剥げ落ちて。
本質の中にある虚無が露呈するのを見てしまったような。
そんな気持ちだったのではと思うのだが。

エリザベート・バートリは。
例えばジル・ド・レエと比べると。
とてつもない虚無を抱え込んでいるように思う。
それはまるで。
機械のような。
システムのような。
異様さでもって血を流し、殺し続けた。
ひと村まるごと殺してしまったこともあるというので、それは犯罪というレベルは超えているが。
戦争や革命とは全く別物の、だだ異様な殺戮であった。
ジル・ド・レエが愛と憎しみと悔恨の中で叫び続けたのとは対照的に。
黙々と恐れも不安もなく、仕事をこなすように。
それはヴラド・ツェペシュのような大儀もなく。
意味もなく、悦びとてなく。
ただ虚無に吸い込んでゆくように、ひたすらひたすら。
殺し続けた。
エリザベート・バートリは後悔することもなかったろうし。
罪を感じることも無く、悦びを感じることも無く。
ただシステム的にそうすべきであったから、そうしたにすぎないと思う。
そこにはなんの意味もない。
マーラーは。
中国の詩を訳して大地の歌として交響詩をつくりあげたが、その一節にこんなものがある。
「生は昏く、死もまた昏い」
それは。
元々の詩の意味はどうだったのかよく判らないが。
生も死も。
無意味であることを指し示しているようにおれには思えた。

廃墟に迷い込み怖れを抱いたかれは、もういない。
おれの周りにいたひとたちは、もう幾人も舞台から降り、二度と戻らぬところへと行った。
時折彼らの声を聞くことがある。
「なぜまだそこにいる」
「むしろおまえこそが」
「全てが無意味と嘯くおまえこそが」
「おれたちの側にいるべきじゃあないのか」
ああ。
それはそのとおりだし、最もだとは思う。
まあ、もう少し待てよと。
いつも彼らに応えるのだが。
どうも、まだ暫くはいけそうにないようだ。
とても不思議なことに。

 

 

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