百物語 四十四回目「ヴラド・ツェペシュ」

25年ほど前の話。
そこは梅田にある小さな居酒屋であった。
おれたちは既にかなり杯を重ねていて。
酩酊というところまではいってなかったかもしれないが。
それなりに酔ってはいた。
どうしてそういう話になっていったのかは、よく覚えていないが。
彼はこう言った。
「おれはサディストだよ」
「ふうん」
おれは少し冷たく嗤った。
「そういうのは、ひとを殺したことがあるやつの言うことだよ」
「あるぜ」
彼は。
酔った顔から、仮面をつけたように表情を消し去り。
言葉を重ねる。
「おれはあるぜ」
「へえ」
おれは嗤いを浮かべたまま。
応える。
「そいつは驚いたね」
彼は、仮面をつけたような表情のまま。
ことの顛末を語ってみせた。
なるほどそれは。
そう言ってもいいのかもしれないけれど。
たんに事の成り行きを見守っていただけだというほうが、正解だと思った。
ただどうしようもない現実を。
あるがままに受け止めただけだというべきだろうと思ったが。
そのことをそんなふうに語る気持ちは痛いほど判ったので。
おれは彼の気が済むまで。
平板な口調で語らせ続け。
互いに杯を傾け続けた。
耐え難い痛みをやり過ごすためのように。

ヴラド・ツェペシュは彼の敵が恐れをこめて名づけた名であり。
本当の名はヴラド・ドラキュラと言うべきなのだと思う。
つまり、ドラクルの息子。
ツェペシュは串刺し公の意である。
彼自身は自らをツェペシュとは名乗らなかったであろう。
おれはかつて自作の中でツェペシュにこう語らせた。

「おれは、おとこを殺しおんなを殺し、戦士を殺し農民を殺し、貴族を殺しこじきを殺し」
ラクラは、歌うように語り続ける。
「異教徒を殺しカトリックを殺しプロテスタントを殺し、あらゆるものを等しく殺し続けてきた」
ラクラの暗い瞳は、死をも焼き焦がす暗黒の焔がごとく輝いており。
さらに言葉を重ねる。
「全てのものに死を等しく与え続けてきた。おとこ、おんな、老人、こども、高貴なるもの下賎なるもの、皆等しく串刺しにして。大地を朱に染めた。空を死で暗く焦がした。呪詛で風を黒く塗りつぶした」

ブラム・ストーカーはツェペシュをあたかも妖魔のように描いたが。
多分彼はごく普通の領主であったのだろうとは思う。
イスラム教徒とカトリックの戦いの中で活躍したばかりでなく。
祖国を独立させ、東ヨーロッパの中で一定のポジションを確立させるのに成功したという意味では。
むしろ極めて有能な領主であった言ってもいいのだろう。
ただ、一説によると彼は自身に逆らうものをそれがたとえ貴族であっても。
容赦なく串刺しにしたという。

死は。
万人に等しく訪れ。
名を奪い、意味を奪い、価値を奪い、全てを両義的なものへと。
混沌とした原初のカオスへと差し戻す。
かつて中井英夫が虚無への供物で描いてみせたような。
無慈悲で暴虐なまでの。
無意味さ。
全てが高速で振動し、無色透明の意味なきものへと還元されてゆくような。
おれたちはその夜。
杯を傾けながら。
名を失い。
意味を失い。
死の前に。
ひれ伏したのであった。