百物語 八十六回目「ケルベロス」

もう、10年はたっただろうか。
おれは、失業者であり、求職活動をしていた。
朝まず、就職情報紙に目をとおして。
おれのスキルが通用しそうな求人を見つけると、コンタクトをこころみる。
アポイントがとれると、指定された時刻まで時間を潰す。
だめだったとしても、なんとなく街中で時間を潰した。
主に図書館にゆき、本を読んで過ごした。
そのころ思ったのは。
仕事をしていたころのおれは、飼われていたのだなあということだ。
おそらく。
目的も、意思も、喜びや哀しみも。
飼い主である企業から与えられていた訳であり。
そこから縁を切るということは。
生きる意思すら希薄になる感じで。
おれは飼い犬から野良犬になったのだろうが。
多分そこに自由はなく。
犬は飼い主が見つかるまで、生きてはおらず。
なにか「もの」のような存在になってしまうということだ。

ケルベロスは。
巨人族を父とし、多くの怪物がそうであるように、エキドナという名の龍を母としている。
キリスト教の世界では、邪悪さを被せられることになるが、もともとの多神教的な世界では、ある種力の象徴的存在であったのではと思う。
一般的には三つ首の姿で知られているが。
本来は多頭の怪物であり、その首の数は五十とも百ともいわれる。
それは英雄たちが、身体的奇形をその身に刻印されているのと同様に。
創世のカオスを呼び覚ますため、キマイラやヒュドラのように不定型の姿をとったのではないだろうかと思う。
ジーン・ウルフは「ケルベロス第五の首」という物語を書いている。
それはどこか遠い星に植民した人類が。
不定型の宇宙人と出会い。
人類は互いに殺し合い絶滅するのであるが。
不定型の宇宙人が人類の姿を模倣し、その行為をなぞり。
いつしか自分達の記憶さえも作り替えてしまい。
自らが宇宙人であることを忘れ、蒼古より人類であったと思い込んで暮らしているという話である。
多神教世界での怪物達は、モノノケと呼ばれるものがそうであるように。
不定型であるのが本来の有り様であって。
仮の姿として、犬であったり、山羊であったり、鷲であったり、蛇であったり。
様々なものの姿を仮初めにとるのだと。
そんなふうにも、思う。

おれは、飼い犬であった時には仮初めの姿を纏っていたが。
野良となったときには、その姿を失ったように思う。
高校生のころ繰り返し読んでいた物語の主人公がいつもこう呟いていた。
「生まれてきた土くれに帰るだけ」
おれは、立ち上がったどろであり。
野良となったおれは。
ものが宿った土くれへと帰ったのだろうと。
そう思う。

 

百物語 八十五回目「童子切」

7年ほど前になるだろうか。
住んでいる近くに文士村というところがあった。
由来はよく知らなかったのだが。
夜になると、どこか濃い闇を湛える場所だったように思う。
おれは、よくその夜の街を歩き。
レンタルDVD屋にゆくのに。
くらやみ坂といわれる通りを抜けていった。
まあ、普通の街ではあるが闇はどこか液体のようにあたりを満たしていた気がする。
近くには桜の咲く通りもあり。
どこか熱に浮かされたような浮ついた闇が支配するその通りを。
深夜にひとり歩いたものである。
そのころ、お守りとしてナイフを持ち歩いていた。
まあ、ナイフというにはいまひとつの、単に鉄のプレートにエッジを立てただけのブレードがついている、ツールキットみたいなものだったのだが。
そのナイフもひとにあげてしまって手元にはなく。
あの夜に歩き回った闇に浸された街も。
なんだか今となっては夢の中のできごとのように思う。

童子切とは。
太刀銘安綱という国宝の日本刀である。
死体を斬る試し斬りで六体の死体を切り落とし、さらに死体を置いた台まで斬ったというので恐ろしいほど切れた刀なのであろうと思う。
国宝である。
源頼光酒呑童子を斬るときに使った刀であるという伝説を持ち。
それが童子切という名の由来のようである。
そうした伝説を纏う日本刀は多い。
例えば雷切りや鬼切りという刀もある。
また、侍というものも、平安のころは兵士という面とは別に、そうした物の怪やかみの類を退治するものとしての面も持っていたように思う。
そうした呪術師的な側面はのちに武芸者たちに受け継がれていくことになる。
おに、とは。
隠、つまり「おん」が転じたとされており。
それは「もの」と同様に目に見えぬものを指す言葉であったようだが。
人型に転ずるものが「おに」と呼ばれるようになったらしい。
目に見えぬということは、おそらく局所実在する以前の、つまりコヒーレントな重なり合った潜在的な状態で存在する、場の性質のようなものであるとも言える。
目に見えぬものつまり、潜在性であると思えるのだが。
それを退治するのに、なぜ日本刀のように鋭利な刃が必要であったのかという問題がでる。
戦場では鋭利な刃物は必要とされない。
西欧の剣はもっと判りやすく、鉄の棍棒に鋭い切っ先をとりつけたむしろ実用的な面を強調したものになっているが。
日本刀は実用性を全く無視した切れ味を持っており。
そもそもそれは、武器であるとは到底思えない。
まぎれもなく、呪具としての役割を担っていたように思う。
鋭い切っ先は。
「もの」や「おに」のように隠されたものを潜在性から切り出し、局所実在の地平へと取り出すためのものだと思える。

おれは。
今でもたまに夜に彷徨うことがあるのだけれど。
「おに」の気配を感じるようなこともなく。
ただ闇が横たわるのを見るばかりであるのだが。
あのくらやみ坂や。
桜並木をふと懐かしく思ったりもする。

 

百物語 八十四回目「反対に河を渡る」

僕は暗闇を歩いていた。
黒く真っ直ぐ伸びている道の両側は、熱帯の密林のように木や草が生い茂っており。
灼熱に燃え上がる生の光輪が闇色にあたりを染め上げてゆき。
そのむせかえるように濃厚な闇の薫りに僕は、少し意識が遠のくのを感じながら。
黒曜石か、もしくは星のない夜空のように真っ黒な道を、僕はひたすらに歩いた。
やがて。
ずっと遠くに光が見えてくる。
それは地上に墜ちた銀河のようであり。
月明かりに輝く、水晶の宮殿を思わせ。
無数の宝石が埋め込まれた、地底の鉱脈のようでもあった。
その光輝くところと、僕の間には河が黒々と流れている。
夜空の闇が空から滑りおりてきて、地上を分断しているようなその河は。
荒れ狂う漆黒の龍のように、ごうごうと渦巻きながら流れていた。
その河を跨ぐ橋に僕は足を踏み入れる。
その橋は登っているのに、下っていくような。
墜ちていくのに、遡っていくような。
あるいは、忘れ去っていくように、何かを思い出しているような不思議な感覚を僕にもたらす。
橋を渡ると。
足元から、花びらが舞い上がってゆき、枯れ木の枝にまとわりついてゆき。
やがて、薄い血の色に染まった花を満開にした木が、透明な光の中へと姿を現してゆく。
僕は、死のように黒い地面から夕日を閉じ込めたような紅い花弁が舞い上がってゆくのを見ながら歩いて行った。
僕の背後には、次々と淡い焔を纏ったような木々が姿を現してゆく。
僕は、目の前に月の光で編みあげたように輝く東屋が姿を現すのを見る。
そこに、あなたが座っていた。
灰色の髪と、深い皺の刻まれた顔をしたあなたは、銀灰色の目で僕を見つめる。
「久しぶりね」
あなたは少し嗄れた声で言った。
突然。
地上から空へ向かって雨が振りだした。
無数の銀の弾丸となった水滴が、闇色の大地から漆黒のビロードのような空へ向かって解き放たれてゆく。
僕はあなたの前に腰を降ろす。
あなたは、夜空を渡る月のように、明るく微笑んでみせた。
「もうね、あなたのことをね」
あなたは、刻一刻と姿を変えてゆく。
灰色の髪は、日が沈んだ後の空みたいに次第に黒さを増してゆき。
その肌は、春先の花が陽射しを浴びて花弁を広げてゆくように瑞瑞しさをとり戻してゆく。
「あいしてもいないし。呪ってもいないのよ」
そして、満月になった月がまた欠け始めるように。
あなたの背は縮み、顔は幼さを纏いだした。
あなたは、すこし舌足らずな感じで言葉を重ねる。
「だってね。もう過去は過去ではなくてね」
僕はすでに腕の中に収まるほどの大きさになったあなたを、抱き止める。
あなたは、僕の腕の中で言葉を継ぎ足した。
「これから新たに造り出すものになったのよ。それでね」
あなたはもう、手のひらに収まるところまできていた。
「あたしはあたしをもう一度産み出すの」
気がつくと、僕は雨の中に立っていた。
黒い空から降り注ぐ雨を頬に受けながら。
僕はゆっくりと歩き始めた。

 

百物語 八十三回目「サンジェルマン伯爵」

おれは、元々アルコールには強い方ではないため、すぐに酔い潰れることになる。
だから、記憶を失うほど飲むことは、殆どない。
けれど、一度だけ。
酒を飲みすぎて、記憶を失ったことがある。
学生の頃のことであった。
サークルの合宿で、琵琶湖のほとりにある民宿に泊まったときに、酔いつぶれて記憶を失ったことがある。
嘘をつくのが好きな彼が、後におれにこう語った。
「いや、真面目な話。救急車を呼ぼうかと思ったわ」
いやいや、本当に死ぬかと思ったんだが。
おまえが飲ましたんだろ。
「まあ、そうやな」
おれは少しため息をつくと。
どうでもいいと思いつつも、一応尋ねてみた。
なんで、そんなにおれに飲ましたんだよ。
「寂しかったんだよ。おまえしか一緒に飲んでくれるやつがいなくて」
なるほどね。
記憶というものは、脳内に保持されると思われるのだが。
短期の記憶領域と長期の記憶領域があり、短期の領域から長期の領域に移動させるのは、海馬体と呼ばれる器官が行っているらしい。
アルコールはおそらくこの海馬体を麻痺させるために、短期の記憶を失うことになるようだ。

サンジェルマン伯爵は。
不死のひとであると名乗っていたようだ。
たとえ、アレキサンダー大王と酒をくみかわしたとか、イエス・キリストに予言を授けられたと言われても。
まあ、実際のところ検証しようがないところはある。
同じように、不死を自称していたカリオストロ伯爵から、不死となる秘薬の製法を書いた本を譲り受けたという伝説もあったように聞く。
不死であったかどうかはともかくとして、表面的な事象を説明するのであれば、複数のひとがひとつの記憶を共有していたのだと考えれば、大体の説明はつけれるように思う。
さて、記憶とはなにかという話になるのだが。
おそらく短期の記憶は、シノプシスの発火状態として保持されているような気もする。
けれど、ひとの記憶を保持するにはシノプシスの量は少なすぎるという説もあるようなので。
何がしかの形で記憶は保持されるのだろうけれど。
ただ、物質の化学的な状態で保持していたとしても、多分記憶を思い出すのにかかる時間が膨大になってしまうと思われるので。
電磁気的かそれに類する方法で保持する必要があるのだろうと思う。
記憶は分子の持つ場の性質として保持されるという説を読んだ記憶がある。
もしそうであれば、別に記憶は脳内に保持される必要はない。
物質であれば、なんでもいいような気がする。
例えば、サイコメトリーはそうした物質に場の性質として付着し保持されている記憶を読み取っているという解釈もできるだろう。
サンジェルマン伯爵は、そうした外部の物質に付着した記憶を共有するひとの集団であったとすれば。
説明がつくと思うのは、あくまでもおれの妄言である。

おれたちは。
時折、記憶を無くすこともある。
それらは、どこかひとしれぬ海の底にでも沈んでしまったものに付着した記憶であり。
月日と海の流れが記憶を押し流してしまったのかもしれないと。
暗く光の届かない海のそこに。
失われた記憶や言葉たちが、ひとしれず浮遊している。
そんなふうにも、思ったりもする。

 

百物語 八十二回目「夢の酒」

中学生のころ。
古典落語が好きだった。
なにしろ、アナーキー&バイオレンスな日常であったためか。
おれは、普通の日常というものに憧れていた。
まあ、学校だけでなく。
家庭もそうとうあれていたので。
こころの拠り所となるものが、必要であったのかもしれない。
古典落語の世界には。
ひとの日常の営みが描かれている気がしたのだ。
宮台真治の言葉であったと思うのだが。
終わり無き日常という言葉がある。
江戸時代はまさにそうした時代であったとされ。
それはまた、この島国の現代を示す言葉であるともいう。
ただ、現代においては、必ずしも終わり無き日常というものは存在せず、それはグローバリゼーションが世界を覆う前。
この島国が島国として閉じることをゆるされていた時代に通用した概念だとも言われるようだ。

夢の酒とは。
古典落語のひとつなのだが。
夢の世界を描いており。
そしてその夢の世界は、個々人で完結するものではなく。
それ自体が独立したものとして、ある種の異世界として存在するように、描かれている。
夢の世界には独自のルールがあるように、思う。
例えば、それが見たことのないような場所であったとしても、懐かしさを覚えることもあり。
まあ、そこに夢の中で何度も訪れたことがあるのかも知れず。
たんにそこが、おれたちのこころの中にある懐かしさという原型に基づいて造られた場所であるような気もする。
夢のルールは。
論理ではなく。
こころの運動に基づいて設定される。
こころの運動は。
全く別個の事象を連関させ接続させる。
それはあたかも統合失調症の患者が、世界と自分のこころの境界を見失ってしまうことのように。
夢という総体が世界とこころの統合をなすということのように思う。

結局のところ、ある意味終わり無き日常とは、おれにとって夢の世界のようであり。
決してたどり着けぬような、無限遠にあるような気もするのだが。
その日常の世界と連動するこころがそもそもおれには持つことが叶わない。
要するに、そういうことの様にも思うのだ。

 

百物語 八十一回目「おとろし」

こどものころから、色々なものが怖かったようだ。
今となってはなぜそのようなものを怖れていたのかよく判らないものまで、怖がっていた。
小学生のころはどうも怖れていただけなのだが。
中学生のころからは、怖れをいだくとともに魅了されるようになった。
そのころに。
おれは、怪奇小説のようなものにのめり込んでゆくことになる。
そのころは大都市の書店へゆくことなど、ほとんどなかったが。
近隣の書店で手に入る本は限られていたし、そうたくさん買えるほどお金もなかった。
ただ、家のすぐ近くに古本屋があって。
そこでよく古ぼけた文庫の怪奇小説を買って読んだものだ。
後に知ったのだが。
おれがその西日が差込む店内の赤く染まる書架で、背表紙が色あせ独特の匂いを漂わす古本を手にして。
好んで買った本は。
アメリカの1930年代、ウィアードテールズという怪奇小説雑誌に掲載された小説を源流とする物語たちであったようだ。
遠い昔。
世界恐慌により資本主義社会が構築した様々な諸価値が崩れ落ちてゆく中で。
呪詛の呻きのように浮き上がってきた物語を。
おれは読みふけり。
その物語の中にどこか異界へと通じる扉が隠されているように感じたものだった。
そして。
おれもいつかそのような物語を書き上げて。
あの古ぼけた書架に色あせた背表紙の文庫のひとつとして並べることを夢想したものだった。

おとろしは。
恐ろしいからきているといい。
わいらという。
畏らからきているという妖怪と一対をなすという説もある。
元々、妖怪というものはひとが抱く恐れの感情に形をあたえるために造られたものといわれるので。
おとろしはまさにその妖怪の根本である部分を担っているかのような名を持つが。
別の説では。
元々おどろおどろの誤読からきているともいう。
おどろとは。
棘のことであり。
髪がぼうぼうとした様であるともいう。
おとろしは、髪を振り乱した獣のような姿をした妖怪である。
呪術的な世界では。
髪とは忌諱の対象とされるという。
ひとは時として、髪に恐れをいだく。
なぜなら、髪はひとの意志とは関わりなく伸びてゆくものであり。
死者の髪も死体を放置していると伸び続けるらしい。
その制御できないひとの理からあたかもはずれてしまうものが、剥き出しの姿で現れるのは。
恐れの対象となるのだろう。
しかし、髪は美しいものとされひとを魅了するものでもある。
それは、ひとのこころから離れ、未知の世界に繋がってゆくもの。
ひとをどこか異界へと誘うものであるから。
ラプンツェルはきっとそうであるがゆえ、編んだ髪を使い魔法の塔から逃げ出せたのだし。
髪を切られたサムソンは死を迎えることになる。
そして、ひとは肉体を最初の他者と呼ぶ。

幼き日々。
おれは、異界へと続く扉がこの世のどこかにあるのかもしれないと夢想し。
それを捜し求めるために、本を読み漁っていたのだが。
けれど、その異界への扉はもしかすると。
おれの身体の中に。
潜在性としてそもそも眠っているだけで。
それを開くことをしなかっただけなのかもしれないと。
今となってはそう思ったりもする。

 

百物語 八十回目「絡新婦」

誰にでも、もて期というものがあるという。
どうも、おれにもそんな時期があったようだ。
といっても、ほとんど自覚はなかったのだが。
会社勤めをはじめて間もないころ、どうも客先でもてていたらしい。

「こないだの合コンどうたっだんですか」
「ああ、あそこはだめだよ」
「へぇ、何でですか?」
「何でって。おまえの人気が高すぎるんだ」
「冗談でしょう」
「いやいや、おまえの物まねとかして盛り上がったりするんだよ」

おれのいないところで、色々あったらしい。
おれ自身に対するアプローチは、ほとんどなかったけれど。
客先で作業していたときに一度話しかけられたことはある。
それくらいで。
そもそもおれは、情けない話ではあるが、おんなのひとが怖かったりする。
だからあまり話しかけることもなかった。
でも、おんなのひとと付き合うこともあった。
まあ、寂しかったのだろうなと思う。
おんなのひとはおれにとってよく判らない未知の存在であったのだが。
むしろおんなのひとにとっておれが、わけがわからない存在であったのだろうと。
そんな感じであった。

絡新婦は。
女郎蜘蛛であり。
山中他界に住まう怪異のひとつである。
日常の空間を出でると山中他界があり、水中他界があり、そこここに怪異が現れる。
女性の怪異は絡新婦のほかにうぶめや牛鬼、山姥がいるのだが。
そもそもなぜ女性に怪異を被せるのかというと。
子というのはそもそも他界=死者の世界からやってくるという考えがあるので。
子を産む女性は他界に繋がっており。
すなわち、民俗学的社会においては、死者の世界に繋がるものとされるので。
それを表現するために、女性の怪異がいるとする説もあったように思うのだが。
それはユング心理学でいうところの、グレートマザーの負の側面であるような。
つまり、絡新婦でいうなれば。
蜘蛛の糸を操り、縛り付ける、絡めとるものであるとともに。
それはジュリア・クリステヴァのアブジェクションのように、おぞましきものとして棄却されるものでもあるという。
そんなイメージが付きまとっているような気がする。
結局のところ。
おとこはおんなのひとに未知のものを重ね合わせてしまい。
そこに怖れと憧憬と嫉妬のこころを抱くように思うのだが。
その中へと踏み込んでゆくものは、殆どありえず。
山中他界で絡めとられたものの多くは、狂死しているように思える。

結局それらは現実のおんなのひととは関係ない、象徴なのだろうけれど。
おれはその象徴的他者に怖れをいだいていたのかというと。
まあ、そうなのかもしれないが。
他界というものが現実が崩壊していく風景の果てにあるとすれば。
むしろおれはそれに憧れを抱いており。
その風景に同化したいと望んでも果たせぬがゆえに。
寂しかったのだろうなと。
そんなふうにも思う。