百物語 八十四回目「反対に河を渡る」

僕は暗闇を歩いていた。
黒く真っ直ぐ伸びている道の両側は、熱帯の密林のように木や草が生い茂っており。
灼熱に燃え上がる生の光輪が闇色にあたりを染め上げてゆき。
そのむせかえるように濃厚な闇の薫りに僕は、少し意識が遠のくのを感じながら。
黒曜石か、もしくは星のない夜空のように真っ黒な道を、僕はひたすらに歩いた。
やがて。
ずっと遠くに光が見えてくる。
それは地上に墜ちた銀河のようであり。
月明かりに輝く、水晶の宮殿を思わせ。
無数の宝石が埋め込まれた、地底の鉱脈のようでもあった。
その光輝くところと、僕の間には河が黒々と流れている。
夜空の闇が空から滑りおりてきて、地上を分断しているようなその河は。
荒れ狂う漆黒の龍のように、ごうごうと渦巻きながら流れていた。
その河を跨ぐ橋に僕は足を踏み入れる。
その橋は登っているのに、下っていくような。
墜ちていくのに、遡っていくような。
あるいは、忘れ去っていくように、何かを思い出しているような不思議な感覚を僕にもたらす。
橋を渡ると。
足元から、花びらが舞い上がってゆき、枯れ木の枝にまとわりついてゆき。
やがて、薄い血の色に染まった花を満開にした木が、透明な光の中へと姿を現してゆく。
僕は、死のように黒い地面から夕日を閉じ込めたような紅い花弁が舞い上がってゆくのを見ながら歩いて行った。
僕の背後には、次々と淡い焔を纏ったような木々が姿を現してゆく。
僕は、目の前に月の光で編みあげたように輝く東屋が姿を現すのを見る。
そこに、あなたが座っていた。
灰色の髪と、深い皺の刻まれた顔をしたあなたは、銀灰色の目で僕を見つめる。
「久しぶりね」
あなたは少し嗄れた声で言った。
突然。
地上から空へ向かって雨が振りだした。
無数の銀の弾丸となった水滴が、闇色の大地から漆黒のビロードのような空へ向かって解き放たれてゆく。
僕はあなたの前に腰を降ろす。
あなたは、夜空を渡る月のように、明るく微笑んでみせた。
「もうね、あなたのことをね」
あなたは、刻一刻と姿を変えてゆく。
灰色の髪は、日が沈んだ後の空みたいに次第に黒さを増してゆき。
その肌は、春先の花が陽射しを浴びて花弁を広げてゆくように瑞瑞しさをとり戻してゆく。
「あいしてもいないし。呪ってもいないのよ」
そして、満月になった月がまた欠け始めるように。
あなたの背は縮み、顔は幼さを纏いだした。
あなたは、すこし舌足らずな感じで言葉を重ねる。
「だってね。もう過去は過去ではなくてね」
僕はすでに腕の中に収まるほどの大きさになったあなたを、抱き止める。
あなたは、僕の腕の中で言葉を継ぎ足した。
「これから新たに造り出すものになったのよ。それでね」
あなたはもう、手のひらに収まるところまできていた。
「あたしはあたしをもう一度産み出すの」
気がつくと、僕は雨の中に立っていた。
黒い空から降り注ぐ雨を頬に受けながら。
僕はゆっくりと歩き始めた。