百物語 七十九回目「フランケンシュタイン」

それはおそらく、滋賀県の片田舎であったように思う。
もしかしたら、違ったかもしれない。
単線の電車にのり、その駅についた。
なくなったのは冬であったが。
その時はもう、夏になっていた。
全ては手遅れであったのかもしれないが、ではいつであればよいというものでもない気もする。
寂れた駅前には、花屋があった。
「おれは薔薇の花を買ってゆくけれどおまえはどうするんだよ」
彼の問いに。
おれは、ぼんやりと頭を働かせる。
「そうだな。おれも何か花を買うよ」
おれは結局霞草を買って。
紅い薔薇の花とともに。
目の眩むような夏の日差しの元を歩き。
鬱蒼とした林の中にあるその墓所で。
花をささげたのである。

おそらくその時、雨が降っていたのだろうと思う。
初夏のレマン湖の湖畔にある別荘。
ディオダティ館に逗留していた詩人とその友人達。
夜だったのかもしれない。
バイロンがこう提案したのは。

We will each write a ghost story.

メアリー・シェリーがその物語を書き上げたのは一年後であるが。
フランケンシュタインは怪奇譚というよりはロマン主義小説、あるいはSF小説の始祖と見做されたりもする。
メアリー・シェリーがどのような意図でその物語を書いたのかは判らない。
フランケンシュタイン博士が物語の中でクリーチャーを生み出した技術は、過去より夢想されてきたものであろうと思え。
例えば、西行法師の撰集抄にはこのような記述があるという。
「無何、おなしくうき世を厭華月のなさけをもわきまへらんとも恋しく覚し」
西行法師は共に歌を詠む友を死体より造り上げようとしたという。
反魂術といわれるそれは、他界より魂を呼び戻すものであろうけれど。
それらが常に指し示すのは、結局のところ。
不完全さというものではないだろうか。
フランケンシュタイン博士を造り出したクリーチャーにしても。
どこか不完全なように思え。
それは機械でもなければ、生命でもなく。
それは過去でもなければ未来を生きる意志でもなく。
それは悔恨でもなければ充足でもなく。
おそらくは。
喪失という名の穴を塞ぐための蓋としての意味だけを与えられた。
怪物なのだろうと思う。

おれは、喪失とともに歩みつづけてきたが。
まあ、結局のところそれを塞ぐより。
自らがひとでもなければ、機械でもない。
怪物になってしまえばいいのではないかと。
そういう結論に辿り着いたように思う。
おれは結局のところ出時不明な怪物になりたいのだ。
そう思うこともある。

 

百物語 七十八回目「見知らぬひと」

僕は、その薄暗い部屋のなかで。
愛するひとを腕にだきながら。
ああ、一体このひとはそれにしても誰だったのだろう。
そう思いながら。
こころの底の闇の中を。
ただひたすら手探り続けるのだが。
腕の中のそのひとの。
美しい花びらのような唇も。
黒い太陽のように闇色に輝く瞳も。
残酷に忘却の帳が僕を覆ってしまい。
ただ、愛しているという思いだけが、そこに残るのだが。
同じ文字を見つけ続けていると、そこから意味が抜け落ちてゆくような気がするのと同じで。
僕の愛も。
まるで砂を手にしたようにさらさらと。
さらさらと流れていって。
それすら僕から失われてゆくようで。
ああ、そのとき僕に蘇った記憶は。

あなたは、抱きしめようとする僕の中から抜け出して。
僕を睨みつけた。
「ちょっと、何するのよ」
僕は答えることができず、ただあなたを見つめて。
かろうじて言葉を引きずり出した。

「愛しているんだ」

あなたは、一瞬表情を無くし。
苦々しげに笑ってみせる。
「はあ? 何いってるの」
あなたの瞳に暗い炎が灯る。
「あんたなんか知らないし。ていうか、ついさっきそこで会ったとこじゃないの」
そんなはずはないと。
僕はのろのろと考える。
あなたと僕は、愛し合っていたはずなのに。
「気持ち悪い。変態。何よ、近づかないで。通報するよ」
あなたは。
突き刺すような瞳で僕を見ると。
きびすを返し立ち去ってゆく。

僕は。
その薄暗い部屋で。
未だに記憶をまさぐっている。
ああ、あなたは一体誰なのだろう。
なぜ、思い出せないのだろう。
なぜ、記憶から蘇るのは、喪失だけなのだろうと。
そう思いながらも。
僕は両の手に愛を抱きしめる。

 

 

百物語 七十七回目「ヒルデガルド・フォン・ビンゲン」

おれ自身にもっとも近しい存在とは。
結局のところそれは痛みであり。
それは恐怖であり。
それらは、幾人もおれから離れていったひとびとはいるが。
ひとり残ったおれのもとに。
兄弟のように。
恋人のように。
そっと寄り添い。
つきそい続けたのだ。

ヒルデガルド・フォン・ビンゲンについて。
さて、一体何を語ればいいのだろうか。
ただその楽曲の美しさに触れさえすれば。
既に十分とも思えるのではあるけれど。
ヒルデガルド・フォン・ビンゲンは常に病とともにあった。
彼女にとって生きることは病とともに苦痛とともにあることであった。
そしてその苦痛こそが。
彼女にヴィジョンをもたらした。

「しかし彼女は生来非常に病弱な体質で、終生自由に歩くことにも困難をきわめたほどだったといわれる。ただその一方で、彼女の「自伝」を筆録した伝記作者である修道士ゴドフリートは、ヒルデガルトが早くから予知をともなう特殊な幻視能力に目覚めていたことを伝えている。
ヒルデガルトの病気が、現代でいうどんな種類のものだったかについてはさまざまな見解があるようだが、ひとつ注目されるのは、記録によればヴィジョンはしばしば病に苦しんでいるさなかに現れた。」

苦痛もまた。
脳の中でコヒーレントに存在する、いうなれば潜在性の積み重なりが。
自壊していくときに発生する様々な現われのひとつなのではないのだろうか。
結局のところ、すべては脳で生じるカオスとノモスのせめぎあいから自壊していくことによって生じているとも考えられる。
苦痛はおそらく快楽の残酷な双子の姉妹であり。
解き放てぬ過去や怨念や愛や哀しみが。
重なり合いながらその自重で崩壊してゆくときに。
流れ出していくものかもしれないが。
ヒルデガルド・フォン・ビンゲンはそこからヴィジョンを生み出し。
美を創り上げることができたる

ああ、願わくばおれもまた。
身を裂かれるような痛みの果てにヴィジョンを得て。
せめて何か言葉を残せればと。
そう思うのだ。

百物語 七十六回目「心の一法」

若き日のおれが最ものぞんでいたものは得られなかったのだが。
まあ、そのむくいのようにぐだぐたの生活を一時送っていた。
単に働いていただけといえば、そうなのだが。
特に目的も希望もなくまあ、ゾンビのように。
昼夜を問わず徹夜の連続で仕事をしていた。
出口のない暗い道をただひたすら歩いているようなものだったが。
そうしていることで、望んだものが手に入るかもしれないという。
勘違いを生きていた。

それは春先のことであった。
そのころはまだ窓の外に桜の木があり。
薄い血の色に染まった花びらが雪のように舞い。
徹夜続きで陽が夕刻には部屋を赤く燃え上がらせるように染めるその部屋で。
おれは横たわっていたのだが。
疲労しつくしていてもなぜか眠りは訪れず。
金縛りのように。
身体だけは縫い付けられたように動かないのだが。
意識だけは、針を脳内に混入させられたように明晰にさえ渡り。
無限の闇へと落ちてゆくような。
そんな感じを味わっていた。

心の一法とは二階堂流の技である。
かつて、武芸者と陰陽師や呪術師の境界はとても曖昧なところにあったように思う。
心の一法はとても奇妙な技で剣術というよりも、集団催眠に近いものを感じるのだが。
正式な記録に残されているところでは、大名行列の見物にきたひとびとを金縛りにしたとも言われる。
宮本武蔵は、記録では細川藩の剣術指南役、松山主水の一番弟子村上吉之丞との試合から逃げ出している。
この松山主水が二階堂流の使い手であり、心の一法を使いこなす。
剣豪とよばれる武蔵にしても、相手を金縛りにさせるような技と戦いたくはなかったということか。
金縛りとは。
ある種癲癇の小発作のようなものではないかと思っている。
一時的に脳内のシノプシスが異常発火する。
脳とはとても奇妙な機械であると言ってもいいだろう。
つまり、シノプシス間の発火を起こすネットワークは電磁気的な連携ではなく、伝達物質が物理的運動を行い、シノプシスの発火をコントロールする。
これは電磁気的なつまり波動的な事象を、局所実在する物質にコントロールさせているということだ。
量子脳理論を語るペンローズは、脳内で量子崩壊が発生していると主張する。
つまり、伝達物質のとおるマイクロチューブルにて波動関数の収縮が起きるというのだ。
結局のところ。
それが呪いであれ、憎しみであれ。
あるは愛であれ、哀しみであれ。
脳内では様々な潜在性がコヒーレントな状態で重なり合っており。
それが自壊していくのだが、その自壊が多元的に生じてしまうとシノプシス発火のネットワークが狂ってゆくので。

おれたちし堕ちてゆくのだ。
無限の闇へと。

 

百物語 七十五回目「ウィンチェスター」

おれは過ちをいくつも犯してきた。
そして。
今もさらに積み重ねていこうとしている。
そんなことは、今更なのだが。
かつて、過ちについて、このようなことを語ったことがある。

「過ちとは、量子力学的なふるまいをする事象だと思う。
個々の愚かな行為を行っている間、そのときの行為はシュレディンガーの猫が生と死が重なりあった状態にあるように、それはまだ過ちとは決定されていない。
でも。
愚かな行為が積み重ねられ、それが自らの重みで崩壊して誤りと決定された時。愚かな行いだけではなく、積み重ねられた全てが過ちの自壊へなだれこんでいく。
コヒーレントに重なり合った波動関数が量子重力の崩壊で、一意に局所実在化するようなものだ。」

これはまた、呪いについても似たようなことが言える。

ウィンチェスター社はアメリカの西部開拓時代からある老舗の銃器メーカーである。
スミス&ウェッソン社の前身となる会社からライフルの権利を譲り受け。
主にライフルの製造を行ってきた。
この会社の創業者の未亡人が作ったウィンチェスター・ミステリー・ハウスこそが。
過ちが生のように蠢き。
いうならば、カオスから立ち上がり語りかけてくるような場となった。
つまり。
それは過去の累積が自壊してゆき、今を規定するということだ。
ひとは、どのように生きようとも。
結局のところ過去の愛の憎しみの哀しみの絶望の奴隷であるというかのように。
ウィンチェスター・ミステリー・ハウスは、無数に折り畳まれた襞のような秘密の部屋に。
過去を。
流された血を。
幾つもの哀しみを抱え込み。
その場を、そして、現在を、そして未来を過ちへと飲み込んでゆく。
結局のところ。
ひとは持続に基礎づけられた多様性からの自由を獲得するためには。

過ちもまた生である自由へと。
乗り越えていかなければなららないのだろう。

そう考えたりもする。

 

百物語 七十四回目「火車」

7年ほど前の話である。
毎晩終電車が過ぎ去ってから仕事場より帰るのが通例であった。
まあ、忙しかったのである。
電車がなければ、必然的にタクシーに乗って帰ることになった。
確か1号線沿いを通って帰ったように思う。
広く長い真っ直ぐな道は深夜を過ぎると車の通りもへり、ビジネス街も暗く闇に沈んで行くせいもあってか、どこか夜の河のようでもあった。
おれは、タクシーをその夜の河を渡る船のようだと思いながら、黒く闇に溶け混んだ街を眺めていたものだ。
その日。
闇の中から大きなトレーラーが、海の底から海獣が浮かび上がるように姿を現したのを見た。
始めはそれはクレーン車を積んでいるのかと思ったが。
薄明かりの中で影のように浮かび上がる巨体をよく見ているとそれが戦車であることに気付いた。
おれは、オフィス街にはとても場違いなその戦闘機械を見て。
いったい自分がどこに向かっているのであろうと。
不思議な思いにとらわれた。

火車とは。
元々は仏教説話に登場する、牛鬼、馬鬼が牽く焔につつまれた車で、死者を冥界に運ぶための車のことのようであったらしいが。
それが転じて、死体を奪う妖怪のこととなり。
焔につつまれた車を牽くのは鬼ではなく、魍魎という獣のような妖怪であったり。
猫叉のような妖怪に牽かれたようだ。
なんにしてもそれは。
この世ならざる所へと、走り去ることのできる車のようだ。
車とは、まあ空間を移動するものだ。
北村昌士ドゥルーズ経由でベルクソンのこんな言葉を引用している。
「空間のなかに並置された多様性と、持続のなかに基礎づけられる状態の多様性という、二つのタイプの多様性が混同される自由の問題」
持続というものは、時間と関わりを持つものだと思われるので、これは空間の中での自由と時間の中での自由について語っているのだと考えられる。
北村昌士は持続の中に基礎付けられる多様性を音楽に関わるものとして語るのであるが。
空間の中に並置されるには、それはそもそも局所実在を前提にする。
量子力学的に言えば、局所実在が実現するのは、観測という行為の後ということになる。
ある意味。
それはおれたちの思考そして、認識と関わるものだ。
この世を移動するのは、おれたちの思考の中を移動するようなものであろう。
しかし、観測される前であれば。
それは場の性質として波動関数によって表されるのであろうが、対象は確率的に世界に遍在するのであるのであるから。
そもそも移動することはありえない。
移動するのはむしろ。
おれたちの思考なのだといっていい。
焔は、世界を揺るがせ、おれたちの思考をふるわせ。
おそらく、弛緩したつまり認識されざる局所実在のない波動関数で表現されるような世界において。
時間と音楽をおそらくは旋回させながら。
この世と他界を。
往還するものであると思う。

おれは。
戦車という戦場で焔を吹くであろう車を見ながら。
ぼんやりと。
そこがもう、この世であらざるところのような。
あるいは。
黒い河のような道が実は冥界に繋がっているような。
そんな妄想にとらわれながら。
夜の景色を茫然と眺めていたのだった。

 

 

百物語 七十三回目「かまいたち」

子供のころの話である。
まだ小学生の低学年であったころ。
なにかと血塗れになるような怪我ばかりする子供であったようである。
頭部に傷を負うことが多く。
額に何針か縫うような傷をよくおっていた。
今では、特に傷跡も残っていないようであるが。
小学生のころは額に傷跡があったため、なんとなく前髪をたらしてそれを隠していたらしい。
幼い日の記憶がいいかげんなので定かではない。
だいたいが、不器用で臆病な子供であったらしく。
特に危険な遊びをしていた訳ではなく。
普通に遊んでいて、全身血塗れになるような怪我をしていたようなので。
まあ、ある意味怪我する才能があったのかもしれない。
怪我をしたとき、本人はただ茫然としていただけのようなのだが。
周りにいた友達がパニクッておとなを呼んでくれたので、どうも大事にはならなかったようだ。
なんにしても、あまりよく覚えておらず、後から大変だったと愚痴られる。
まあ、痛かったのだろうとは思うのだけれど。
怪我したときのことは、あまりよく覚えていない。
どちらかと言えば、その後押さえつけられ傷口を縫われるときのほうが遥かに痛くて記憶に残っている。
が、まあ、生きるというのはそういう痛いもんだからしょうがないと。
思っていたふしがある。

かまいたちとは。
ある事象に対する様々な解釈につけられた総称のように思う。
つまり、突然皮膚にすっぱり斬られた傷口ができ。
そこからあまり血はながれず、傷もはやく治るのであるが。
なぜその傷ができたのかは、よく判らないという事象である。
かまいたちは。
構太刀からきているともいう。
野鎌が付喪神に転じるともいうようだ。
また、鼬の姿を持ち、鎌のように鋭い爪を持つ妖怪であるともされ。
飯綱の一種でもあるといわれることもあるらしく。
また、旋風と関係があるとされる場合が多いようだ。
妖怪の関わる怪異としては珍しく、科学的解釈も多くある。
興味深いのは。
まあおれのかってな思いなのではあるのだろうけれど。
科学的な説明も、妖怪をもちいた説明も、同程度の説得力しかもっていないように思えることである。
怪異の事象としてははっきりしているのだが、科学的説明はどこか矛盾が残ってしまい。
事象を一意に意味沈殿させることができず。
そういう意味では妖怪を用いた説明と同じように思える。
そもそも、科学的説明というものはどこまでいってもひとつの仮説なのであり、真理の提示ではないのだから。
まあ、そういうものなんだろうけれど。
現代物理学者が量子力学に直面したときに、自分達の言ってることが実は道教の教えと大差ないのではと感じて。
神秘思想に関わってしまったという話も聞くが。
結局のところ、妖怪を使う説明も。
科学を使う説明も。
知るという山に異なる道から登ってもたどり着く頂は同じというような。
そんな感覚がなくもないのだが。
では知るとは何か。
判るとは何かといいだすと。
それは、世界と自分の間につける様々な折り合いのひとつと思え。
では、かまいたちはどのように折り合いを世界との間につけてくれるのかというと。
世界とはおれたちに、突然理不尽な痛みを与えるものであると。
まあ、そういうことのようにも思うのだ。

おれは。
何にしても、幼児期に幾つもの痛みを体に受け続けたせいか。
知るということは、痛みを伴うものだという感覚を持ってしまったように思う。
まあ、へんな話ではあるが。
世界とはそのような形でおれたちに語りかけ。
おれたちは斬り刻まれることで、世界の言葉を受けるという。
奇妙な確信めいたものを、身体に刻まれたような気がするのだ。