百物語 七十八回目「見知らぬひと」

僕は、その薄暗い部屋のなかで。
愛するひとを腕にだきながら。
ああ、一体このひとはそれにしても誰だったのだろう。
そう思いながら。
こころの底の闇の中を。
ただひたすら手探り続けるのだが。
腕の中のそのひとの。
美しい花びらのような唇も。
黒い太陽のように闇色に輝く瞳も。
残酷に忘却の帳が僕を覆ってしまい。
ただ、愛しているという思いだけが、そこに残るのだが。
同じ文字を見つけ続けていると、そこから意味が抜け落ちてゆくような気がするのと同じで。
僕の愛も。
まるで砂を手にしたようにさらさらと。
さらさらと流れていって。
それすら僕から失われてゆくようで。
ああ、そのとき僕に蘇った記憶は。

あなたは、抱きしめようとする僕の中から抜け出して。
僕を睨みつけた。
「ちょっと、何するのよ」
僕は答えることができず、ただあなたを見つめて。
かろうじて言葉を引きずり出した。

「愛しているんだ」

あなたは、一瞬表情を無くし。
苦々しげに笑ってみせる。
「はあ? 何いってるの」
あなたの瞳に暗い炎が灯る。
「あんたなんか知らないし。ていうか、ついさっきそこで会ったとこじゃないの」
そんなはずはないと。
僕はのろのろと考える。
あなたと僕は、愛し合っていたはずなのに。
「気持ち悪い。変態。何よ、近づかないで。通報するよ」
あなたは。
突き刺すような瞳で僕を見ると。
きびすを返し立ち去ってゆく。

僕は。
その薄暗い部屋で。
未だに記憶をまさぐっている。
ああ、あなたは一体誰なのだろう。
なぜ、思い出せないのだろう。
なぜ、記憶から蘇るのは、喪失だけなのだろうと。
そう思いながらも。
僕は両の手に愛を抱きしめる。