百物語 八十二回目「夢の酒」

中学生のころ。
古典落語が好きだった。
なにしろ、アナーキー&バイオレンスな日常であったためか。
おれは、普通の日常というものに憧れていた。
まあ、学校だけでなく。
家庭もそうとうあれていたので。
こころの拠り所となるものが、必要であったのかもしれない。
古典落語の世界には。
ひとの日常の営みが描かれている気がしたのだ。
宮台真治の言葉であったと思うのだが。
終わり無き日常という言葉がある。
江戸時代はまさにそうした時代であったとされ。
それはまた、この島国の現代を示す言葉であるともいう。
ただ、現代においては、必ずしも終わり無き日常というものは存在せず、それはグローバリゼーションが世界を覆う前。
この島国が島国として閉じることをゆるされていた時代に通用した概念だとも言われるようだ。

夢の酒とは。
古典落語のひとつなのだが。
夢の世界を描いており。
そしてその夢の世界は、個々人で完結するものではなく。
それ自体が独立したものとして、ある種の異世界として存在するように、描かれている。
夢の世界には独自のルールがあるように、思う。
例えば、それが見たことのないような場所であったとしても、懐かしさを覚えることもあり。
まあ、そこに夢の中で何度も訪れたことがあるのかも知れず。
たんにそこが、おれたちのこころの中にある懐かしさという原型に基づいて造られた場所であるような気もする。
夢のルールは。
論理ではなく。
こころの運動に基づいて設定される。
こころの運動は。
全く別個の事象を連関させ接続させる。
それはあたかも統合失調症の患者が、世界と自分のこころの境界を見失ってしまうことのように。
夢という総体が世界とこころの統合をなすということのように思う。

結局のところ、ある意味終わり無き日常とは、おれにとって夢の世界のようであり。
決してたどり着けぬような、無限遠にあるような気もするのだが。
その日常の世界と連動するこころがそもそもおれには持つことが叶わない。
要するに、そういうことの様にも思うのだ。