百物語 八十回目「絡新婦」

誰にでも、もて期というものがあるという。
どうも、おれにもそんな時期があったようだ。
といっても、ほとんど自覚はなかったのだが。
会社勤めをはじめて間もないころ、どうも客先でもてていたらしい。

「こないだの合コンどうたっだんですか」
「ああ、あそこはだめだよ」
「へぇ、何でですか?」
「何でって。おまえの人気が高すぎるんだ」
「冗談でしょう」
「いやいや、おまえの物まねとかして盛り上がったりするんだよ」

おれのいないところで、色々あったらしい。
おれ自身に対するアプローチは、ほとんどなかったけれど。
客先で作業していたときに一度話しかけられたことはある。
それくらいで。
そもそもおれは、情けない話ではあるが、おんなのひとが怖かったりする。
だからあまり話しかけることもなかった。
でも、おんなのひとと付き合うこともあった。
まあ、寂しかったのだろうなと思う。
おんなのひとはおれにとってよく判らない未知の存在であったのだが。
むしろおんなのひとにとっておれが、わけがわからない存在であったのだろうと。
そんな感じであった。

絡新婦は。
女郎蜘蛛であり。
山中他界に住まう怪異のひとつである。
日常の空間を出でると山中他界があり、水中他界があり、そこここに怪異が現れる。
女性の怪異は絡新婦のほかにうぶめや牛鬼、山姥がいるのだが。
そもそもなぜ女性に怪異を被せるのかというと。
子というのはそもそも他界=死者の世界からやってくるという考えがあるので。
子を産む女性は他界に繋がっており。
すなわち、民俗学的社会においては、死者の世界に繋がるものとされるので。
それを表現するために、女性の怪異がいるとする説もあったように思うのだが。
それはユング心理学でいうところの、グレートマザーの負の側面であるような。
つまり、絡新婦でいうなれば。
蜘蛛の糸を操り、縛り付ける、絡めとるものであるとともに。
それはジュリア・クリステヴァのアブジェクションのように、おぞましきものとして棄却されるものでもあるという。
そんなイメージが付きまとっているような気がする。
結局のところ。
おとこはおんなのひとに未知のものを重ね合わせてしまい。
そこに怖れと憧憬と嫉妬のこころを抱くように思うのだが。
その中へと踏み込んでゆくものは、殆どありえず。
山中他界で絡めとられたものの多くは、狂死しているように思える。

結局それらは現実のおんなのひととは関係ない、象徴なのだろうけれど。
おれはその象徴的他者に怖れをいだいていたのかというと。
まあ、そうなのかもしれないが。
他界というものが現実が崩壊していく風景の果てにあるとすれば。
むしろおれはそれに憧れを抱いており。
その風景に同化したいと望んでも果たせぬがゆえに。
寂しかったのだろうなと。
そんなふうにも思う。