百物語 八十七回目「ドン・ファン」

子供のころ、よく熱をだした。
そういう体質であったようだ。
中学生くらいまでは、一週間くらい高熱が続くことはよくあった。
熱がでている間は、世界が変容し歪んで感じられた。
深夜、暗闇の中で高熱に包まれていると、生きることがそもそも暗い地下の牢獄に閉ざされているような気分になった。
まあ、そういうものなのだろうとも思うが。
また、自分ができそこないの、まともに生きる力のないがらくたのようにも感じられた。
そうした時、自分の死を思い描いた。
こうして。
苦痛だけが身近なものとしてあり。
このままゆっくりと衰弱して闇にのまれるのだろうと。
そんなことを考えていると。
死の恐怖がまるで不意な漆黒の来訪者のように、おれのそばにくるのだ。
子供のころの死の恐怖は、どこか剥き出しの容赦のなさがあった。
あらゆる希望を、望みを、喜びを喰い荒し醜い絶望の汚物へと変化させてしまい。
そこにも逃げる術はなく。
その夜空に空いた漆黒の穴みたいな来訪者を、高熱がもたらす息をすることすら苦痛でしかな状態でもてなし。
ただただ、立ち去ってくれるのを、待つしかなかった。

カルロス・カスタネダは、ドン・ファンと出会い、その教えを本に残している。
ドン ・ファンはメキシコのヤキ・インディアンの呪術師である。
ドン・ファンは、カスタネダを教え導く際に、ペヨーテを使ったりしていた。
これはメスカリンを含む幻覚作用のある植物であったようだ。
ドン・ファンは、ドラッグのもたらす意識の変容を用いて、意識の彼方へ向かおうとする。
これは、その後ドラッグ・カルチャーを作り出してゆく。
1970年代のアメリカのフラワー・チルドレンやヒッピーたちの根底にはカスタネダの語る神秘体験があった。
ただ、それはドン・ファンの教えの本質ではない。
単にドラッグは梯子のようなもので、問題は高みに出てからにある。
どうやって出るかは、主要なことではない。
ドン・ファンは、死に学べと語る。
以下はカスタネダドン・ファンと会話する文章の引用である。

「死は敵ではない、たとえそう見える としてもな。死は人間が考えているよう な破壊者でないんだ」
「じゃ、いったいなんだい? 」
「呪術師に言わせれば、死は唯一、わしらが相手にする価値のあるものだ」
彼は答えた。
「死はわしらに挑みかかるのさ。普通 の人間にしろ呪術にしろ、わしらは、その挑戦を受けるように生まれついている。ただ呪術師はそのことを知っているが、ふつうの人間は知らないんだ」

死とは何か。
ケン・ウィルバーの意識のスペクタルによれば、それもまたひとつの心的現象ということになる。
死そのものを、経験することはできない。
他者そのものにたどり着けないのと、同じことであり、それは無限遠にあるが。
それは真っ黒な恐怖と絶望を纏っている。
そして、それはおれたちに挑みかかる。
それはこころの動きのひとつであるが、そこから学ぶべきだとドン・ファンは言う。
では。
不安と恐怖から何を学べというのか。
ドン・ファンは詩を引用する。

この飽くことを知らぬ、執拗な死が
この生きながらの死が
神よ、あなたを滅ぼしてゆく
あなたの精妙きわまりない細工の中で
バラの中で
石の中で
不朽の星々のなかで
そして歌に
夢に
目を射る色彩に照らされる
火のように燃え尽きたうつしみのなかで

そして神よ、あなたはその場所 で
無窮の時を、死につづけてきたのだろう
われらが何も知らぬうちに
あなたの灰、かけら、澱
でもあなたはまだそこにいる
自らの光に欺かれる星のように 星なき光はわれらに達し
限りなき破滅を
われらから隠し続ける

ドン・ファンはこの詩を語り、ここに本質があるという。
結局、恐怖と不安も言葉なのか。
あるいはその亀裂なのか。
そこから脱するための、出口なのか。