百物語 三回目「路地裏で、途方も無いはなしをする」

数年前のことである。

夏のことだった。
それこそ、日差しが幾千もの刃となって地上を蹂躙しているような。
そんなふうな、残酷で苛烈な夏だった。
おれは犬のように喘ぎながら、地下鉄の階段から地上に這い出すと赤坂の近くにある仕事場に向かっていた。
過酷なまでの日差しは地上から色を奪うのだなと思いつつ。
そして、声をかけられた。
「あの、もし」
そのような夏であっても路地裏は薄暗く、幾つもの影が重なり合い、澱んだ空気が渦巻いている。
その薄闇の中に。
そのおんなはいた。
「よろしければ、お話を聞いていただけませんか?」
なぜ、立ち止まってしまったのだろうと。
おれは不思議に思う。
そのおんなはおそらく初老といってもいい年にさしかかっていたと思う。
普通であれば、立ち止まることはなかったのだろうが。
あまりにも得体のしれない、そして。
名状しがたい光をその瞳に宿していたからだろうか。
おれは立ち止まり、おんなに向き合った。
「お願いがあるのです」
おんなは和装であり、もちろんおれには着物のことなど判るはずもなかったが、おんながごく自然にその着物を着こなしているのは理解できた。
詐欺やキャッチセールスというものとはとても思えなかった。
何よりその震える声。
切羽詰った表情は。
おんなが、地の果てから逃げ出して今ここにたどり着いたと言っても、頷いたであろう。
そのような感じであった。
夏だというのに。
おんなの周りだけは、その路地裏の空気は冬の鈍重さを纏っており。
おれはその路地の奥の闇は一体どんな魔が潜むのかと。
少し、ぞっとした。
おんなはとても上品で丁寧であり、縋るような瞳でおれを見つめ。
そして、こう切り出した。
「はじめてお会いした方に、このような途方も無いことをお願いするのはどうかと思うのですが」

この話はこれで終わる。
なぜなら、おれはそこから逃げ出したからだ。
もし、そのまま路地の奥へと足を踏み入れていれば。
想像もつかないような世界がおれを飲み込んだのかもしれないが。
おれは薄く澱んだ闇から、激しく切り裂くような日差しの中へと。
もう一度戻ると再び犬のように喘ぎながら。
仕事場へ向かったのだ。

 

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