百物語 十二回目「しゃれこうべ」

折角、百物語なのであるから、怪談ふうの話もしてみようと思う。

絵の師匠から聞いた話である。
師匠は、しゃれこうべ、つまりひとの頭蓋骨を描いてみたいと思ったそうで。
その理由は忘れてしまったのだけれど。
兎に角、頭蓋骨をもっているひとがいないかあちこちあたったようだ。
日本国内ではみつからなかったらしく、南米に住んでいる知人がもっているのを貸してもらえることになって。
ようやくそれを手にいれることができた。
遠く異国の地からきた頭蓋骨は、師匠のアトリエに置かれることになる。
師匠のアトリエは、師匠の色々な過去の作品の他に弟子たちが寄贈した工芸作品やら、師匠の扱うシンセサイザーやパソコンといった電子機器やらが雑然と置かれている薄暗い部屋だ。
なぜかハイギョみたいな不思議な魚が飼われていたり、幾つものギターが置かれていたり、結構カオスな部屋である。
師匠の作品は絵画だけではなく陶芸作品や不可思議な立体造形作品もありそれらがエッシャーの絵のような奇妙さを醸していて、ダリに多大な影響を受けたという師匠の作品の奇妙さもあって、アトリエ自体がどこか魔法使いの工房のようでもあった。
そこに頭蓋骨が置かれると、妙にはまるようでもあり、また、全く目立たず部屋に馴染んだ感じのようでもある。
師匠は自宅で絵画教室もやっていたこともあり、そのアトリエへは弟子たちが訪れることもあった。
おれもまあ、その内のひとりではある。
その頭蓋骨がアトリエに置かれてから。
そこに訪れる弟子たちに、何度か事故が起こった。
階段から落ち、頭を負傷。
車を避けた拍子に道で転んで、やはり頭を負傷。
また、ひとり頭部に腫瘍ができ、手術を受けることになったものもいた。
大事にいたるものはいなかったのだが。
頭に関わることばかりが続き。
また、皆頭蓋骨を見たあとに事故にあっていたので。
師匠がどう考えていたのかは知らないが、周りのものはあの頭蓋骨がよくないのではと、話をし始めた。
師匠のもとを訪れる弟子たちの中には、結構風変わりなものもいたのだが。
その内のひとりが、霊媒師に知り合いがいるので、その頭蓋骨を持って相談してきますという話になった。
師匠もそれを了解し、その弟子は全く事情を知らない友人をつれてその霊媒師の元へと行ったそうだ。
そこは。
いわゆる日本建築の武家屋敷めいた雰囲気のある平屋の家で。
その家の座敷に通されたそうだが。
そこで霊媒師と話をするうちに。
突然それはおこった。
事情を知らずたんなるつきそいできた友人が突然苦しみだし。
話かけると食べ物が欲しいとうわ言のように繰り返していたらしく。
丁度、霊媒師にお茶と一緒に出されたというケーキがあったので、それを差し出してみると。
これじゃあないと叫んで、投げ捨てたので。
霊媒師の家の台所に案内してもらうと、ご飯をがつがつと食べ始めた。
落ち着いたところで、霊媒師が話しを聞き始めると。
頭蓋骨に憑依していた霊がその友人をとおして話をしはじめ。
それは、遠い昔飢えで亡くなったひとの霊であったようだ。
その一件の真偽はともかくとして。
師匠は結局その頭蓋骨を南米に送り返すこととした。
まあ、単に十分描きたいものを描き終えただけだったのかもしれないけれど。
その後に。
一連のことがある種のたたりのようなことであったとして。
では、そもそも頭蓋骨と一番一緒にいて接触の多かった師匠はなんともなかったのかという話になったとき。
師匠はこういったらしい。

「僕は絵を描く対象としてしかみとらへん。なんでもそれが、信仰の対象として見たとたんに、呪がかけられるんや。ただの光と影の集積として見ているかぎり、そんなもん呪のかけようがあらへん」

師匠の元を訪れていたころ。
まあ恥ずかしながら哲学青年であったおれは。
絵を描くということは、現象学的還元のプロセスに似ていると思ったものだ。
つまり目の前にあるものの社会的価値、使用価値、そのものが持つ意味、役割といったものを全て忘れ去り。
極端に言えば、それが存在しているということすら忘却し。
そこにある光と影が。
どのようにこころの中に受け止められてゆくのかを。
どのようにこころの中でものとしての位置を築き上げるのかを。
ただひたすら観察しそのプロセスを絵として描いてゆく。
そういうものだと思った。
そして、そのプロセスは。
ある意味、呪に対する解呪、つまり憑き物落しのプロセスであるとも思える。
一切の確信を捨て。
その確信がどのようにこころに辿り着いたかを問い直す。
絵を描くとはそのようなことだとも思った。

 

 

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