百物語 二十四回目「目について」

ベルクソンは、目について光という問題に対する解と語ったという。
それは、複数の生物の種が異なる器官を発達させていった結果、たどりついたのが同じ目という器官であったためだ。
ベルクソンは重要なのは問題を解くことではなく、問題をみいだすことだという。
では、光とはそもそも問題なのだろうか。
アインシュタインは、光とは波であると同時に粒子であるという非常に奇妙な解釈を行う。
問題は、そもそもそこにある。
局所実在という問題。
波は空間に遍在し、一ヶ所に収束することはない。
しかし、粒子は一ヶ所にしか存在しえない。
ここからあの有名なシュレディンガーの猫というパラドックスが生まれてくる。
波から粒子へ。
波動関数の収縮。
それは、おれたちが認識した瞬間におきるという定義をコペンハーゲン解釈は行った。
そしておれたちは目で見た瞬間に。
そもそも波から粒子への変換を行っているのではないのか。
目は、波動関数の収縮装置なのだろうか。

聖書では、こう語られている。
はじめに「光あれ」と神は語ったと。
世界は光とともに産み出される。
それは、未分化のカオスであった世界が、光によって分節されたということだ。
原初の世界は、収縮することのない、局所実在などありえない、なにものでもありえると同時になにもでもないものであった。
それは、光によって、おそらく重なりあって無限に多様で潜在性の海であった世界は切り刻まれ局所実在に向かって収縮していくということになる。

また、ヨハネの書には「はじめに言葉ありき」と語られている。
光に先だってあったのはまず言葉、「光あれ」と語った神の言葉であるとしている。
言葉とそれによって産み出される思考があり、はじめて光があり波動関数が収縮し局所実在が産み出されるということだ。
しかし、おれたちの世界の本質とはなんだろうか。
局所実在こそが、錯誤なのではないのか。
言葉で語りうるものこそ、まやかしではなかったのか。
だからこそ。
ベルクソンは表層の差異と本質の差異を区別し、強度という他と比較しえない実存における差異を見いだしたのではないのか。
問題は、光の産み出す、言葉の産み出すまやかしから免れることなのだ。

ベルクソンは、色彩について、視神経というものがそもそもそのような微細な波動を感知できないはずであるということから、それをひとつの強度としてとらえる。
重要なのは。
目をとじて尚、色彩を見るということであり。
強度としての色彩の中で生きることなのだ。

 

 

 

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