百物語 十七回目「砂の本」

ホルヘ・ルイス・ボルヘスの綴る物語にこのようなものがあった。
砂漠の中に解き放ったひとに、このように語る。
「ここが、我らの迷宮だ。ここには入り口も無く出口もない。行く手を阻む壁もない」
うろ覚えの記憶では、こんな感じだった。
物語が始まるということは、終わりが必ずあるということだ。
それは、内側がつくられると必然的に外側がうみだされるということのようなものである。
そして、ハレがつくられると、ケガレが産みおとされるということと同じ。
生もまた。
始まるとともに。
死への旅が必然づけられる。
恋愛という特権的な時間もまた、終わりを必然づけられるものだ。
しかし、砂はそうではない。
どこにも始まりを指し示すものはなく。
どこにも終わりを指し示すものもない。
何ものでもなく、何ものでもあるうるような、形を持たぬものが延々と続くばかりだ。

砂の本は。
一度ひらいたページを二度とひらくことはできない本だ。
ただひたすら、見たことのないページが繰り広げられてゆく。
その本に書かれた物語は、決して始まらず。
必然的に終わりを迎えることもない。
ただただ、無限の生成変化を繰り広げていくことになる。
ホルヘ・ルイス・ボルヘスの砂の本を読んだおれは感動し、絵の師匠に話をした。
その話を聞いた師匠はぽつりと、こう言った。
「まあ、目の前の現実はそんなようなもんや」
おれたちが目の前で同じものを見ていると思うとき。
または、同じことが繰り返されていると思ったときには。
それは、脳の働きによってそう感じるのであり。
実際に、同じ現象が繰り返される訳では無い。
ある自閉症の少年は、今自分の目の前にいる犬が。
五分前に見た犬と同じ犬だということが、理解できなかったという。
それは、記憶できなかったのではなく。
むしろ細部に至るまで精密に記憶されていたため。
その細部における差異が認識されたため、同じということが理解できなかった。
おれたちが同じという時には、圧殺される差異が必ずあるのだ。
そして絵を描くとき、もしくは物語るとき。
その圧殺されていた差異を解き放つということだ。
それら差異が無限に累積されていけば、いつしかそれは砂となる。
砂となってさらさらと。
始まりも終わりもない、繰り広げられる生成変化となる。

 

 

 

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