百物語 十九回目「ヴォイニッチ手稿」

かつて、ウォルター・ベンヤミンは純粋言語という概念を提示している。
思考をひとからひとへと伝えるという、おれたちが言語の役割と信じているものを。
放棄してしまい、ただ言語のための言語としてのみ存在しているとされる純粋言語。
もちろんそれは、ベンヤミンが思考実験として提示してみせた架空の言語であるが。
これは否応なく、ある本のことを想起させられる。

その本は、ヴォイニッチ手稿と呼ばれる。

16世紀のプラハ
ルドルフ2世の統治のもと、プラハには様々な魔道師や錬金術師たちが集ったと言われている。
あの高名なジョン・ディーもまたそのプラハに訪れたひとりであった。
ヴォイニッチ手稿はそんな魔法が隆盛しているプラハへともたらされ、ルドルフ2世の手元へくる。

少し、ウィキペディアヴォイニッチ手稿の項から引用しよう。
ヴォイニッチ手稿
『手稿には、記号システムが確認されている特殊な人工文字によって何かの詳細な説明らしい文章が多数並んでおり、ページの上部や左右にはかなり詳細で緻密な、植物や花の彩色画が描かれている。植物の絵が多いが、それ以外にも、銀河や星雲に見える絵や、精子のように見える絵、複雑な給水配管のような絵、プールや浴槽に浸かった女性の絵などの不可解な挿し絵が多数描かれている。』

ヴォイニッチ手稿は言語らしきもので書かれていることは間違いないようなのだが。
その言語を使用した国家、民族はどこにも存在しておらず。
ただ、解読されることのない謎の言語として今も残されている。

ひとつの仮説として。
例えばキリスト教世界宗教として成立していくプロセスの中で葬り去った数々の異端宗教があり。
ナグ・ハマディ文書のように密かに隠匿されて生き延びたものが、そうした異端と呼ばれる宗教の一端を伝えているが。
このヴォイニッチ手稿キリスト教の手から抹殺されることを逃れるため、暗号として異端宗教の秘儀を残すため書かれた可能性もあるだろう。

しかし、今となっては解読するすべもなく。
その本は。
読まれるということを放棄してしまったかのような。
伝えるということを放棄してしまったかのような。
そう、それは純粋に本としてだけ存在している。
そこに書かれた言葉は純粋に、言語としてだけ存在している。

その出自、来歴はともかくして、ヴォイニッチ手稿ベンヤミンの言うところの。
純粋言語で記述された、純粋書籍のように。

そんなふうに思うのだ。

 

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