百物語 二十六回目「文学について」

彼女は再び訪れる。

彼女は再びこの地を訪れるだろう。
その両の手には荊の焔につつまれた、剣を持ち。
芸術と呼ばれる駿馬に跨り。
その両脇には、美と快楽という名の猟犬をうち従えて。
古に、東の草原を駆ける騎馬の民が。
西の古都を燎原の火が焼き尽くすように、蹂躙したかのごとく。
彼女の焔はひとびとを花びらにかえて宙を舞わし。
彼女の叫びはひとびとを音楽にかえて空を散らす。

彼女はそうして、再びこの地を訪れるだろう。


「これはなんだい」
まあ、詩だな。
「これが詩だって? 韻を踏んでないじゃないか。それに対句法や反復法の使い方がでたらめだし」
うるさいな、韻を踏めば詩だってもんじゃあないだろう。谷川俊太郎の「なんでもおまんこ」だって韻を踏んでねぇだろうが。
「君に谷川俊太郎が判ってるのかい? そもそも詩とは形式と技法が表現の可能性と格闘を演じた、その戦闘記録みたいなもんなんだよ。君は、作品として昇華しきれない中途半端な言語にとりあえず詩とレッテル貼っとけば作品として提示できるとか姑息なことを考えていないだろうね」
あほか、そんなことを考えるわけないだろう。おれは又市だぜ。百介じゃあない。
「まあ、君はまともではないからね」
そうじゃあねえだろう。
そうじゃあないんだ。
いいか。文学というのはだ。唯一文学だけが表現の形態の中で「文学とは何か」という問いを発するんだ。
判るか?
「そもそも、それが勘違いだろう。文学には表現としての形式が未定義だと思われてるだけで。詩なんて技法と形式の塊じゃあないか」
違う、そうじゃあねえ。
言葉を相手にしているというのはどういうことか、だと言ってるんだ。
絵にしても。
音楽にしても。
敵は明確だ。
それは思考であり、言葉なんだよ。
だから、その敵になるってなあ、どういうことか判ってるのか。
ニーチェの言葉にあったとおりだろう。怪物と戦うものは、自身が怪物になることを恐れなければならない。深淵を覗くものは、また、深淵から覗かれている」
違う。
全然、違う。
いや、デリダみたいな不在神学について語る気もないし、言葉で言葉を越えるなんてぇ話をする気もないんだが。
問題なのは、終わらないことだ。
そして始まらないことだ。
もっと言えば、語らずして語ることだし。
目を閉じて見ることだ。
「よく判らないな。それでどうして中途半端な言葉を詩と呼ぶことに繋がるんだよ」

いや、それはおれにもよく判らないな。

 

 

 

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