百物語 二十八回目「九字印」

それは30年くらい前の話になる。
古い街に住んでいた。
近くには、縄文期の土器が出土するような山があり。
いくつもの沼地が近くにはあった。
今はもう、山は崩され沼は埋められ、延々と住宅地が広がっているのだが。
そのころは、色々な気を孕んだ緑や水場が溢れていたところで。
そこは迷路のような住宅地があり、その行き止まりの路地の奥におれの住む離れがあった。
家自体、相当古いが、周囲の街も古くまた迷路の奥にひっそりと佇む離れがおれの住処であったのだが。
そこには何か澱む気があったのであろうと今になって思うことがある。

ある夜。
おれは九字の印を切る声で目覚めた。
おそらく午前2時か3時くらいのことである
おそらくおとことおんな、ふたりが繰り返し、繰り返し印を切っているようで。
路地の行き止まりで、ふたりのひとが九字を切るというのは。
間違いなく呪詛とその返しに関連するのだろうと思うのだが。
まあ、30年前とはいえ、そのような呪詛に関わるような事が現代人であるおれの身近におこるとは。
かなり驚いたものだった。
九字は結局、言葉のひとつだ。
言葉は。
力を持つ。
いや、世界は。
言葉によって作られているといっていいだろう。
だから言葉は世界を動かす、世界を造り上げる力を持つ。
呪詛にせよ。
つまり、憎しみも怒りも悲しみも。
慟哭も、叫びも、怨念も。
つまりは言葉であり、それを送るのも言葉であり、それを返すのも言葉である。
そして。
喜びも快楽も。そして祝いも祝福も。
それを送るのもそれを返すのも言葉である。
結局のところ世界は言葉である。
それを送られて、それを返されて。
それを奪われて、それを失って。
嘆くのも、喜ぶのもまた言葉によってなされるが。
おれたちは、きっと。
その言葉の向こう側にある永遠をこそ。
こころざす身ではなかったのか。

 

 

 

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