百物語 三十八回目「見つめる瞳」

子供のころの話である。
家の裏手には庭があったのだが。
あまり手入れのされていない、サヴェージ・ガーデンといった感じの庭であった。
一度その庭で竜巻がおこったことがあり。
親は小さな池を造って、竜巻を防止した。
おれはその池に蛙をつれこんだので。
夏場には随分鳴き声でにぎやかなことになった。
おれはひとりで遊ぶことの多い子供であったため、その庭で蛙や虫を捕まえて遊んでいたものである。
例えばバッタを捕まえて、蜘蛛の巣につけて蜘蛛が獲物を捕らえるところを見たりして。
夏の終わりから秋のはじまりの長い午後を過ごしたりしていた。
ただ。
ある日の出来事を境にして、おれは虫を捕まえて遊ぶのを止めてしまう。
出来事といっても、別に何か事件があったというのでもなく。
いつものように、庭でバッタを捕まえていたのだが。
その捕まえたバッタを見ているうちに。
その瞳に目がいっただけのことで。
そのときおれは。
ただ漠然と、「ああ、見られてるんだ」と思った。
おれは、その時はじめて見つめる眼差しの背後に、なにものかの存在を感じたのだけれど。
それは、理解したり交信したりすることの可能なものではなく。
ただただ、得体の知れない名付けえぬ、他者という存在を。
はじめて感じとったのである。

現象学とは、まず世界の実在するという信憑を捨て去ることからはじめることになる。
それは、エポケー(忘却)するともいうし、括弧にいれるともいう。
まず、世界が目の前にあるという確信を(つまりドクサを)一旦取り外して世界を見てみようというのだ。
そこから。
世界が在るという確信がどこから現れるのかを、探ってゆくということである。
ドクサをエポケーした時点において、そこに残るのは世界を見つめるわたしの眼差しだけということだ。
さて、世界をエポケーしたそのときには、他者という存在も消え去ることになる。
おれたちが、全てが光と影の積み重なりとなった世界から再び他者の存在を見いだすのは。
おれたちを見つめる眼差しを、見いだした時となる。
見られるということは、見るということでもある。
それはつまり、見つめる眼差しを見るということであり。
そして、眼差しを見た瞬間に。
おれたちは、その背後にあるなにものかを感じとることになるのであろうけれど。
それは。
おれたちが、見ることによって再構築していく世界の中で。
おそらく唯一構成できないものであり。
エポケーされた世界の中では。
その眼差しの向こうにあるものは、権利上決してたどりつくことの出来ない断絶の彼方にあるもの。
ただ、命懸けの跳躍によってのみ、その向こうへゆく試みがゆるされる。
無限遠の他者であり。
おれたちは眼差しを見出だすことによって、その存在を感じとることになる。

幼き日のおれは。
眼差しの彼方に他者を感じとるとともに。
おれもまた見つめられる、つまり眼差しの中ではひとつの得体の知れぬ他者となりうるのだと。
そんなふうに感じると。
自分自身もまた名付け得ぬひとつのものであると。
そうも思った。

 

 

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村