百物語 五十五回目「えびす」

15年ほど前のことである。
一時おれは職を離れ。
日々を無為に過ごしていた。
一日の大半を誰とも会わず、誰とも口をきかず。
どこかに居つくこともなく。
ただただ、漂泊の毎日であった。
そのときは時間をつぶすため、あちこちを訪れた。
主に図書館。
それ以外にも。
美術館や博物館。
そして。
水道博物館には。
淡水魚を飼育している水槽が無数に並んでいる部屋があった。
おれは。
時折、日長一日魚を見て過ごす。
そこは、いつも薄暗くひんやりとした部屋で。
その薄闇の中。
幾つもの水槽が、光を閉じ込めた硝子の箱のように。
仄かな輝きを浮き上がらせており。
そしてその水槽の中で銀色の流線型をした魚たちが。
ひらり、ひらりと。
泳いでいるのを見た。

えびすとは。
蛭子神のことでもあると、言われる。
蛭子神は。
国産みの神話の中で、イザナギイザナミが一番最初に産み落とした神であるとされている。
その神は。
おんなからおとこへ声をかけることによって産み出された神であるがゆえに。
手も足も目も鼻も口もない。
おそらく卵のような神であったため。
海へ流されることになる。
けれど七福神のひとりであるえびすは。
釣りをして手に入れた、魚を吊り下げた姿をしている。
海に流されたえびすは。
そこから富を携えてもどってくるという。
漂泊神に対する信仰に基づくもののようであるが。
さて、ユング心理学の文献を読むと。
キリスト教に関して、このような記述がある。
十字架という針に、キリストという餌をつけて。
魂という魚をつり上げると。
海は。
無意識のメタファーであり。
そして、おそらくは始源のカオスのメタファーでもある。
えびすはおそらく。
未分化の身体で始源のカオスへと下ってゆき。
そこで真の自己を釣り上げてもどってくるのだと。
そのことを、現しているのだと。
そんなふうに思う。

おれは一時的に名を顔を失い。
水の中へと。
無意識の中へと。
降っていったのかもしれない。
ただ、そこで何かを見出だしたのかというと。
結局のところよく判らないのだが。
まあ、自分がどの程度のしろものであるかは。
多分思い知ることになったとは思う。

 

 

 

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