百物語 五十四回目「付喪神」

高校生のころの話である。
絵の師匠のアトリエには色々なものがあったが。
中には、名状の付けがたいものがあった。
例えば。
螺旋を描く棒状のもので、虹のように様々な色彩が彩色されているもの。
アクリル絵の具でおそらくクリスタルバーニッシュかなにかでつや出しされており、ある種両生類の身体めいたつやがあった。
何かの役にたつものであるとは、とても考えられないのであるが。
装飾品というにはあまりに不気味で意味がなさすぎる。
それは何をできるでもない名もないただの「もの」であったが。
それがなんであるのかは、あるとき師匠から聞いた。
「これはな、足無しイモリや」
師匠はそう言った。
果たして。
その足無しイモリと言う生き物が実在するのかどうかは、よく判らないが。
まあ、それが役に立つものではないのは変わらないのに。
名がついたとたん、なぜかその存在を認めて納得してしまうようになるのは、不思議なものである。

付喪神とは。
九十九神に対する当て字であるという。
九十九とはようするに、「たくさん」のことである。
使っていたものや、まあ動物であってもそうなんだろうけれど。
たくさんの、多くの年月をひととともにすると、それは妖怪となるという。
だが、考えてみるといい。
ものが名もなく名状のつけようのないものから。
一つの道具、もしくは装飾品となるためには。
ある意味それを認識するための概念装置が必要である。
始元のカオスから世界を分節し構築するのは言葉であると言ってもよく。
もしくは、その言葉を成り立たせる概念であると言っていい。
つまり。
ものを妖怪へと変貌させるのは、そのものを認識するためのひとの認識が。
いつしか変容するということでは、ないのであろうか。
おれたちが世界を認識するにあたっての概念装置はおそらく使用し続けると、そこにさらなるものが付け加えられる。
ひとのこころに隠匿されている、哀しみ憎しみ悦びそれらが。
いつのまにか概念装置へ付着してゆき。
妖怪とよばれるようになる。

師匠は足無しイモリは、実在する生き物だと言っていた。
よくそれを手元において、触っていた。
なんだか手にすると、落ち着くらしい。
おれにしてみると。
それが何ものであるかは一応判ったとはいえ。
なんというか、妖怪の類いであることには変わりは無かった。

 

 

 

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