百物語 六十六回目「アルフレッド・ジャリ」

中学生のころ。
前にも書いたように、よく殴られた。
まあ、おれの性格が悪かったせいもあるのだろうけれど。
普通に廊下を歩いているだけで、前から殴りかかってこられたし。
階段の最上段で背中を蹴られたりして、あやうく転げ落ちるところだったこともある。
気がつくと制服をぼろぼろにされたりしていたのだが。
学校とはそういうところだと思っていたので。
特にいじめにあっているという認識は無かった。
そのころただひとりだけ、おれの味方というか。
ともだちがいて。
ある日そいつが。
「おまえ、弱いからこれ持っとけ」
と言って、ナイフを渡してくれた。
刃渡り20センチほどだったろうか。
正確にはナイフではなく、単に鉄板を細長く切って、グラインダで削って刃のようなものを作っただけなので。
それでひとを斬るなんてできそうにもない、ぺらぺらなものだったのだけれど。
見た目は結構物騒な感じに仕上げられていたので。
とりあえず、囲まれそうになったらそれを振り回して逃げることができ、多少は役に立った。
そいつはおれとは別の高校にいって、そこを卒業したあとまあ、戦闘のプロになった。
銃器についてはとても詳しく、多分自動ライフルを目を瞑っていても組み立てられるレベルで。
一時、小説で銃器を書くときにはそいつに相談したものだった。

アルフレッド・ジャリは。
19世紀末から20世紀初頭というかのシュールレアリストたちが暴虐の限りをつくした時代の、作家である。
アンドレ・ブルトンが帝王として君臨し、ディアギレイエフ・ロシア・バレエ団が劇場を蹂躙していたフランスで。
ジャリはユビュ王という人形劇で、劇場を騒然とさせたりもした。
ジャリは、拳銃が好きだった。
本当なのかどうかは知らないが。
ジャリのアパートに近づくと、拳銃を撃つ音が必ず聞こえてきたそうである。
彼は、部屋にいる蜘蛛を撃っていたそうなのだが。
蜘蛛の巣は装飾として残していたそうだ。
真偽のほどは不明である。
ジャリは超男性という小説を書き。
スポーツと性行為と機械を奇跡のような手並みで一体化させる。
スポーツとは何かというと。
それは比較できないものを比較できるようにするシステムであり。
機械はその比較を計量化、数値化する装置であるともいえ。
ジャリはそのシステムに性行為をぶちこんで、数値化を試みてみせた。
ベルクソンのいうように。
現代における問題は、本性の差異を段階の差異に取り違えることにあるように思う。
つまり、実存に根ざすような経験、純粋に強度によって語られるべき経験ですら。
数値化し計量し、比較可能なものへと変換することにより。
それはどちらかがより大きい、どちらかがより小さいといった比較により優劣がつけられるように見せかけるが。
そもそもそのようなものは錯誤でしかなく。
本来は比較不能なそれ自身における差異があるだけなのだ。
そして、強度そのもののメタファーともいえる性行為を。
その段階の差異への変換システムであるスポーツの中へとねじ込んで。
測定装置である機械によって量ろうとすることによって。
現代というシステムを壊して見せようとしたのかとも思える。

拳銃は。
工業製品であり、機械であるにも関わらず。
それは奇妙に身体化し、臓器化する存在であるような気がしてならない。
それは、日本刀のように優美さとは全く無縁のシンプルな存在なのだろうけれど。
ジャリはその拳銃を肉体化し、自身の一部として。
愛という強度そのものを測定する不可能へと挑んでゆく機械となる。
そんな気がしている。

 

 

 

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