百物語 六十五回目「シュヴァルの理想宮」

確かそれは、大学受験をする前の日であったと思う。
おれは自分の部屋で。
なぜか漫画を描いていた。
それは、多分中学生のころに友人と馬鹿話をして着想したストーリーで。
その漫画に着手したのは多分高校生の終わりごろだと思う。
結局、大学に入学したのはその翌年であったが。
大学生になっても飽きもせずその漫画を描きつづけていた。
自分の絵を出展している画廊にその漫画をおいて、来場する知人たちに無理やり読ませていたのだが。
まあ、あまりのその長大さに。
これをライフワークにするつもりかよ、と。
失笑されたものであったが。
社会人になってもいつか続きを描く日がくるであろうと思い。
その漫画のシナリオを書きはじめて。
今でも時折、思い出したように書き足しているのだけれど。
一向に終わる気配はない。
ただ、30年以上の歳月をかけて漫画、シナリオと書きつづけているのだが。
全部で文庫本一冊にも満たない量でしかなく。
いつか終わる日がくるとは到底思えないのだが。
自分の人生を貫いているような物語があるということを時折思い出すと。
不思議と安心するものがある。

フェルディナン・シュヴァルは郵便配達夫であった。
フランスの片田舎で、自転車も使わず歩いて郵便配達をしていた。
19世紀の世紀末であり。
都市ではシュルレアリストたちが、時代の変革を夢想しアカデミズムに叛旗を翻していたはずだが。
シュヴァルの住む田舎は静かなものであったろうと思う。
ある日シュヴァルは石につまづく。
その石の形の奇妙さに魅了され。
それを自宅の裏庭に置くのだが。
やがてシュヴァルは日々石の収集をはじめだし。
毎日石を積み上げてゆき。
それは次第に建物のように膨らんでいって。
ついに33年の月日が流れた後には、そこには宮殿ができていた。
シュヴァルはその宮殿に理想宮と名づけたのだが。
それを作品として呼ぶとすれば。
誰かに何かを伝えることを放棄した作品であると言わねばならないだろう。
それは、ただただ石を積み上げてゆくという行為の果てに、辿り着いたところなのだが。
シュヴァルの理想宮は太古の遺跡のように見るもののこころに戦慄と畏怖をもたらすだけの力を持っており。
ひとりの郵便配達夫の人生を貫いた何かがそこにはある。
そして、もうひとり。
何かを伝えることを放棄した作品であり、またそれに触れたものに畏怖の感情をもたらす作品として。
かのヘンリー・ダーガーの「非現実の王国」がある。
これは、世界一長い小説としても知られる。
20世紀のはじめのシカゴ。
おそらくは世界恐慌や経済的混乱の渦中にあったであろうアメリカで。
ヘンリー・ダーガーは掃除夫の仕事の傍ら、それこそゴミ捨て場から拾ってきたチラシの裏に。
その長大で異様で戦慄的な小説と、エロスと残酷さと聖性が一体化したような挿絵を、書き、描き続けた。
これを作品として呼ぶのであれば。
それは伝えることを放棄した作品であると、やはり言わねばならないが。
まぎれもなく「非現実の王国」はヘンリー・ダーガーの人生を貫いていた。
ウォルター・ベンヤミンの概念に「純粋言語」というものがある。
それは「もはや何ものをも意味せず表現しない」言語であるとされる。
そして、それはまた「永遠のことば、神の響き、神の声」であるという。
すなわち、神の言葉は誰かに伝える、表現するというものではなく、ただあり。
そしてそれはひとを貫く力がある。
ベンヤミンはこう語ったという。
「いかなる詩も読者に、いかなる美術作品も見物人に、いかなる交響曲も聴衆に向けられたものではないのだ。」
それはただあり。
時を越え、空間を越え、領域を越え、貫いてゆき。
そしてただ存在する。
おれたちに許されるのは解釈したりすることではなく。
その純粋強度、あるいはベルクソンの言うところの本性の差異(それ自身における差異)にふれて。
その有り様に貫かれるだけなのだ。

ああ、おれは。
意味の無い長大な物語を未だに書きつづけているのだが。
おそらくは。
石を積みつづけたシュヴァルのように。
ある日自分を貫いた何物かを。
それが永遠なのか神の声なのかはさておき。
その得体の知れぬ何かを。
形として残したいと。
そう思っているだけなのかもしれない。

 

 

 

 

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