百物語 六十七回目「アントナン・アルトー」

20代のころの話。
よく映画を見た。
いわゆるメジャーなもの、芸術的なもの、B級サスペンスやホラー、アニメ。
まあ、なんでも見たのだけれど。
たまにマイナーな作品の上映のときに。
場末のポルノ映画館を一時的に借りて上映されることがある。
普段あまりいかない、街の片隅。
迷路のように入り組んだ、しかし多分夜になればネオンも輝きそれなりに賑やかなかもしれないが。
まるで冬の曇り空に閉じ込められたように灰色に沈んだ路地裏を歩くと。
小さな小屋のような映画館があったりする。
中に入ると妙に薄暗く。
そこはなんだか巨大な生き物の体内に入り込んでしまったような。
闇が溶けてゆき、液状化して溜まったような映画館の中で。
断片化した色彩の氾濫と、切り刻まれた音たちがこだまするのに浸りきって。
やがておれ自身が。
闇に侵食され溶けてゆくような。
そんな心地になったものであった。

アントナン・アルトーは、作家であり、役者であり、詩人である。
病苦からくる苦痛と、麻薬の酩酊と、スキゾフレニアの幻惑に生きたひとであった。
その言葉はあまりに感動的であり、こころに突き刺さってくる。
少し引用する。

「皮膚の下の体は過熱した工場である
 そして外では病者が輝いている
 彼はきらめくあらゆる毛穴を炸裂させて」

アルトーは、ローマ皇帝であるヘリオガバルスを主人公とした小説を書いている。
それは「戴冠せるアナーキー」を描いた小説であるといえる。
それはあらゆるものでありえ、またなにものでもないけれど、ただあるような、潜在性の爆発的な顕現なのであろう。
そして、その潜在性の果てに、「器官なき身体」という言葉がある。
ドゥルーズガタリはアンチオイディプスという資本主義の分析を行った本の中で、このアルトーの言葉である「器官なき身体」を使っている。
生きるための処器官により構成される身体とは別に、器官なき身体というものがあるとする。
それは顕在化する以前のようするにまだ何ものともなっていないゆえに何ものでもありうるような、潜在性といえるのではないかと思っている。
そこに登録されるのが種々の機械である。
それは接続され、連携されることにより世界を駆動してゆく。
いうなれば、下意識において様々に世界と意識がインターアクションをとり創造していくその仕組みなのだが。
それは器官なき身体の上になりたっていると考える。
その器官なき身体から顕在化し爆発的に現れるもの、抗うもの、創造するものが「戴冠せるアナーキー」ではないかと思っている。
まあ、例によっておれの妄言としてとらえていただければ幸いであるが。
ドゥルーズスピノザと表現の問題という著作の中で、神は無限の可能性の表現であると語った。
神なき世界において無限の潜在性を顕現させてゆくのが「戴冠せるアナーキー」ではないかと思う。

おれは闇の中に溶けてゆき。
スクリーンから滲み出してくる、駆動する色の断片たち、音の欠片たちを。
半ば溶け込んでしまった身体の中に取り込み組み込んでいって。
つかの間に、闇の空間の中で、からからと回ってゆく。
物語たちと連動し駆動されていったのだ。

 

 

 

 

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