百物語 六十八回目「黒百合姉妹」

昔から変わらず、古本屋が好きだ。
昔は、大阪球場のところにあった古書街によく行った。
最近は、梅田の駅前ビルにある古書街へ遊びにゆく。
古書街は迷路のように思え。
いたるところに入り込んだら抜けれない袋小路があるような気がして。
丸一日でも彷徨い続けることができる。
最近のブックオフとかは、まあ便利ではあるのだが。
あの雑然として混沌とした古書街の魅力はない。
古書街にはどんなものが眠っているか得体がしれないような凄みがある。
ブックオフのようなチェーン店は別として。
昔ながらの古本屋には二種類あるように思う。
ひとつは。
骨董品としての本を扱う店。
そこでは本はきちんとした商品となり、様々な等級づけ価格付けがなされ、価値の体系の中に本は組み込まれる。
もうひとつは。
雑然と様々なジャンルの様々な本が並べられている。
多くはひと昔前の流行であったり。
今はもう忘れ去られた大衆作家の本であったり。
ジャンクめいた本が、既にかつて商品であったことを忘れ去られたように並べられている。
ある意味本の価値を買い手が造り出すような。
そんな古本屋。
おれは後者のような古本屋が好きで。
そうした古本屋で昔の詩人の文庫や、大昔の美術展の図録、単行本に収録されてない小説が乗っている雑誌のバックナンバー、怪しげな学術書、高名な作家が書いたが忘れ去られている物語といったものが。
片隅に埋もれていたりする古本屋を延々と巡りつづけ。
まる一日を潰してしまったりもする。
ただ、今ではそうした古書街も随分縮小して消え去りつつあるような気もする。
おれが、泉鏡花の黒百合を見つけたのは、そうした古書街であった。
それは奇妙な物語であった。
いわゆる中世の伝奇ものに片足をおきつつ、近代の醒めた瞳で世界を眺めながら。
書かれた物語であるように思った。

黒百合姉妹は。
とても奇妙なバンドだと思う。
彼女らはヨーロッパの中世に歌われていたトラッドを歌っているようにも思えるが。
しかし例えば、イギリスのデッド・カン・ダンスという。
つまり死者もまた踊るという意味の、既に死に絶えたはずの音楽を現代に蘇らせ歌ってみせるというバンドと比べると。
とても古楽を再現しているようには、思えない。
確かに雰囲気はあるのだが。
まあ、雰囲気だけだと言ってもよくて。
では、彼女らは偽者なのかというと。
いや、そもそも偽者にすら到達していないというか。
そもそも、本物というのはなんだろうかと思わされる。
模倣や再現といったものは、完全なオリジナルというものを前提とするのだろうけれど。
しかし、その完全なオリジナルというものは本当にどこかにあるのだろうかというと。
全てはある意味、模倣であり、何かの改編であると言ってもよく。
例えば、神話の多くがその源流をその地域に広く流布されている伝承に起源を持つように。
完全なオリジナルとは、イデア的かあるいは、超越的な観念と言ってもいいのではと思う。
例えば、この世には完全な円、つまり中心から等距離な点の集合としての円など存在せず、それは観念の中にしかなくて。
実際にある円は、多少歪んでおりいびつなのだろうけれど。
おれたちはその不完全な円を見ても円と認識できるので。
完全なオリジナルはではこころの中にこそある、ユング心理学でいう共通無意識やレウ゛ィ・ストロースの言う構造のようなものかというと。
まあ、そうかもしれないが。
しかし、むしろおれには経験の中から築き上げられてゆくという本質直感的なとらまえ方のほうがしっくりくるのだが。
黒百合姉妹はようするに、その直感として何か古のはなうたを歌っているような。
そんな軽々としながらも。
みょうに深淵に根ざしているようなものを持ち。
誤解を恐れずに言うのであれば。
それはジャンクとして、つまり元々の古楽のイメージだけを引き剥がし、自由に纏ってみせることによって、音楽に根ざす直感的な部分のみを遊離させてみせたような。
そんな感じがする。

そして、泉鏡花の黒百合もまた。
中世の伝奇を模倣しているようだが、それは偽者にも至っておらず。
要は本物/偽者という二項対立的な図式からも転げ落ちてしまうような。
物語としての直感的な部分を遊離させ、軽やかに纏ってみせ。
自由に語ってみせたと。
そう思う。
そしておれもまたいつかそんな風に。
古くて新しい自由な物語をこそ。
語ってみたいものだと思うのである。

 

 

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