百物語 六十二回目「ふらり火」

中学生のころの話である。
それは、秋のはじまりくらいの出来事であった。
文化祭が間近にひかえており。
生徒会の役員を諸般の事情からやるはめになっていたおれは。
既に陽が落ちて闇につつまれていた学校の校舎にひとり残り。
文化祭に向けての雑務をこなしていたのだが。
色々なことに飽いてきて。
ぼんやりと、窓の外を眺めていた。
今では、その学校は住宅街の中にあるのだが。
そのころは、学校の裏手には雑木林があり。
丁度、林と住宅街の境界線に学校は位置していた。
学校の脇にある道は、学校の横で断ちきられたように終わっており。
その向こうは下り坂で、雑木林へと続く。
不思議なことに。
その学校の向こう側、下り坂を降りきったところの林がどのようなところであったかは。
全く記憶にない。
思い出そうとすると、学校の向こうの領域はまるで白い霧につつまれているように。
曖昧模糊としたものへとなっていく。
そのむこうは。
混沌に、無意識に属する領域であるというかのように。
そして、その夜。
黒き闇に包まれているその雑木林の向こうから。
何か火のようなものが。
ふわふわと漂ってくるように見えた。

ふらり火は。
火を纏った、鳥の姿をした妖怪である。
その名のとおり、ふらりふらりと漂う火のような妖怪らしいが、詳細はよく判っていない。
死んだひとの怨念が火となって漂うという話もあるようだが。
まあ、実際のところはどうなんだろうと思う。
さて。
火というのは不思議なもので。
それはまあ、ものというには少し戸惑う部分があるが。
もちろん、生命ではなくて。
ただ、生命のメタファーのような見方もできるが。
場合によっては、容赦ない破壊と死をもたらす残酷な存在でもある。
神話では。
それはかつて神の領域にあるものであったから。
それをひとにもたらしたプロメテウスは、永劫に続く罰を受けたと語られる。
火は両義的なものであるから。
どこか往還するようなものだと思える。
この世界と。
向こう側の異界とを。
この世にあらざる鳥の翼に乗ってふらりふらりと、行き来をする。
それは何物かをもたらすものでは無いのだろうけれど。
ただそこに、境界線があることを指し示すためのように。
ふらりふらりと。
漂ってゆく。

おれは、その学校の向こう側から漂ってきた火のようなものが何物であったのか、よく判らずじまいであったのだけれども。
まあ、おれ自身が結局のところ何者でもなく。
曖昧模糊とした。
意識の領域と、無意識の領域をまだ。
ふらりふらりと。
行き来していたような気がする。

 

 

 

 

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百物語 六十一回目「野狐」

数年前の話である。
住んでいるところの近くに、それなりに有名らしい密教の寺院があるのだが。
その寺院が何年かに一度、秘蔵の本尊を公開することがあり。
まあ、せっかくだから見に行ってみようと思い、その寺まで行ってみた。
思ったより大きな寺院であり。
インドのシヴァ神などを思わせる姿の神を描いたタペストリなどもあって。
そこそこ見応えのあるお寺なのだが。
なぜかぼけ封じの弥勒菩薩が祀られているのはともかくとして。
何より驚いたことに、お稲荷さんが祀られていたことだ。
そのあたりの繋がり方がよく判らないというか。
寺の中に鳥居があって、狐を神体とした神社があるというのは。
おれの常識からは少しはずれていて。
なんなんだろうなと、思うものがあった。

野狐というと。
狐憑きとは、この野狐が憑くものとして知られている。
一説によると。
そもそも狐がなぜ憑くかというのは。
狐憑きを調伏していた真言密教の流れをくむ修験者が、憑く妖怪をダキニの眷属として扱ったことから始まったともゆう。
ダキニの眷属とは元々ジャッカルであり野干なのであるけれど。
この島国にはジャッカルがそもそもいないこともあり、野干がなまって野狐となって。
狐が憑くことになったともいう。
なんにしても。
ダキニ、つまり荼枳尼の眷属として狐は扱われるようだ。
場合によっては、狐は荼枳尼自身の化身ともされるようだが、まあなんにせよ、それはこの島国独特の話である。
ダキニはカーリーの侍女であり、半人半神の女神でもある。
恐るべき殺戮と破壊の女神の僕である女神が、いつの間にか狐に乗った天女として稲荷信仰と関わるようになるというのは不思議でもあるのだが。
ダキニはまた、真言立川流においても信仰の対象とされていたように思う。
立川流は、性行為を術法の中に組み込んでいると聞く。
それはインドの歓喜天やヨガのリンガヨーニなど、性行為を聖性に繋げてゆく信仰と関わっているような気がする。
さて、前回の犬神はどうも男性的な感じがしたのだが。
狐はおんなに関わり、しかもその奥には性愛の秘技とも何か関わりがあるようである。
そもそも、神話的社会ではおんなは異界に繋がるものとされる。
それは、子を生むからであり、神話によっては子は死者の世界からやってくるものであるとされるため、見方によってはおんなは神話的に見ると死者の世界と繋がっていることになる。
そして、その異界へと往還する手立てとして性愛の秘技を見ることも可能ではないだろうか。
では、おんなや性行為が異界を呼び寄せるのかというと。
それは少し違うようにも思う。
ひとは、その根源的なところにおいて、異界と現世という区別を設けるようなのだが。
その異界のメタファーとしては、本来何ものであってもいいのだ。
差異があるところに。
異界とのメタファーが降臨する。
野狐はまあ、そのひとつとして言ってもいいのだろう。

結局のところ、密教の寺院の中に、稲荷大社があったとしても。
要は、差異の網の目によって異界のメタファーを創り上げることこそが、ある意味寺院の役割なんだろうから。
その中に充填されるものは、交換可能であるし、流通可能であると言ってもいいのだろうと思う。
まあ、ひととはそのように。
差異の網の目を織り上げてゆき、世界をもそれで織り上げてゆく存在なのだと。
そんなふうに思うのである。

 

 

 

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百物語 六十回目「犬神」

学生のころの話である。
おれと、うそをつくのが好きな彼と。
哲学好きの後輩と三人で話していた。
「僕は、全てのことを説明できますよ」
哲学好きの後輩は、こう言った。
「ほう」
おれは、彼と目を見合わせ、まあそういうものかと頷いたのだが。
彼は表情を無くしていた。
いつもの。
本当のことを語るときの表情になっていた。
おいおい、とおれは思ったが。
彼は、こう語りはじめた。
「じゃあ聞くけどな」
彼は、顔にも声にも表情を無くしたまま、語り続ける。
「なんでひとはな」
哲学好きの後輩は、基本的にいいやつなのでまじめな顔をして聞いているが。
おれは多分ろくでもない話になる予感がして、うんざりしていた。
「呪いの言葉を書いて、床下に埋めたりするんや」
おれは、おいおいと思って後輩の顔を見たが、後輩はまじめな顔をして頷いていた。
まあ、結果的には正しい対応だったのかもしれない。
「ひとの認識というものは、空間を象徴的に意味づけたり、構成したりします。そこには、呪詛をはじめとする様々なひとの負の感情、あるいは聖性のような感情も付加されていくことになります。空間はある意味象徴的に身体化され、観念化されるのです」
彼の聞いたのは物凄く個人的で具体的なことなのだが。
これまたひどく抽象的で一般的な回答へと回収されてゆき。
まあ、回答にはもう少し専門的なジャーゴンも付加されていったように思うが。
なんだか全く噛み合っていないような。
凄くはまっているような。
とりあえず、彼は納得したようでその話は一旦終結した。

犬神は。
いわゆる蠱毒、あるいは蠱術と呼ばれるたぐいのものである。
元々は中国の呪術であったが、日本に伝わったようだ。
それがいわゆる陰陽道であるイザナギ流とまざりあったりもしたようだ。
詳細はよくは知らない。
憑き物筋とよばれるものと、犬神憑きが関係している場合もあるようだ。
呪術とは。
世界と精神の関係の有り様の問題である気がしている。
昔読んだ本に、「分裂病の少女の手記」という本がある。
この本の中に記述されている言葉に、事物との魔法的連関という言葉があった。
世界の中のある動きが。
少女の精神と連動し、それが恐怖となったり救いとなったりする。
世界と自己の境界が崩れてゆき、世界でおこることが精神世界でおこることであり、精神世界でおこることはまた、世界でおこることとなってゆくのだ。
いうなれば、蠱術とは。
精神の中にある怒り、憎しみ、哀しみのような負の感情を。
動物を使って増幅し、強化して。
それを世界の動きと連動させようという。
そんな術法であると思う。
ひとは。
こころの奥底は世界と連動しているという不思議な確信を持っており。
蠱術とはその確信をついているものだと思える。
ただ、それを使うということは。
世界を毒で満たすのであるから。
その術者のこころも毒で満ちるであろうと。
おれは単純にそう思う。
だから、呪いの歌をうたうものは。
返しの風に吹かれるに違いないと。
そんなふうに思う。

おれはそれからずっと後に。
彼からその呪いの言葉を床下に埋める件についての詳細を聞かされることになるのだが。
まあ、例によって実にうんざりするやりきれない話をした後に。
「なんでそんなことをするのか、おれは知りたかったんや」
と締めくくったのだ。
おれは哲学好きの後輩ほどいいやつじゃあないので。
「知るかよ、そんなもの」
とそっけない答えをしたと思うが。
まあ、話くらいはまじめに聞いていたように思う。

 

 

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百物語 五十九回目「高く孤独な道」

僕は、その高い塔の上から、夜のそらを見上げていた。
傍らにはあなたいて。
穏やかな笑みを浮かべている。
黒い幕を貼ったような夜空に、突然いくつもの亀裂が走った。
亀裂の奥には、ビロードのような夜空よりさらに深く、濃い闇がのぞいている。
それは何物にも形容することができないような、虚無であり。
この世の終わりを思わすような、深い闇であった。
僕は驚き、不安を感じてあなたの腰に手を回し、ぎゅっと抱きよせたのだけれど。
あなたは平然と、何か面白がっているかのような笑みを浮かべて、手を夜空に向かって伸ばしてみせる。
「ほら、始まるよ」
あなたの指し示す、夜空の裂け目からひらりひらりと。
花束が落ちてきた。
深紅の薔薇のような花束が。
幾つも幾つも。
暗い海の中を遊杙していく紅い魚のように。
ひらりひらりと、しんと張り詰めている夜の空気の中を泳いでゆき。
昏い大地の上へと、降り注いでゆく。
空に無数にできた裂け目から、まるで深紅の雪が降り注いでいくように、地上へと紅い花束が積み上がっていった。
それは、地上から焔が天空へ向かって伸びてゆく様のようであり。
暗い夜空を無数の火が焼き焦がしているようであった。
あなたはまるで、面白がっているように、薔薇色に頬を染めながら。
桜色の花びらのような唇を歪めて笑みを浮かべている。
気がつくと、夜の闇の中に山が聳えていた。
それは、黒い巨神のようであり。
そしてその頂きの部分は燃え上がっているように、紅い花で埋め尽くされていた。
僕はあなたを抱き締めようとしたが、あなたは笑いながら身をはなし。
足元を指差した。
そこには、赤く身を捩らせてゆく蛇のような道が。
黒い闇の中に延びている。
「ちゃんとできてるじゃあないの」
僕は蒼ざめた顔であなたを見つめる。
あなたは、緩やかに笑ってみせると、その道に向かって足を踏み出す。
高い闇の中に聳えている山の深紅に染まった頂へ向かって歩きだした。
大輪の咲き誇る花のように美しい笑みを浮かべたまま。
そして。
僕もまた。
あなたの後ろへ続き。
赤い高く孤独な道へ向かって。
一歩踏み出す。

 

 

 

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百物語 五十八回目「見越し入道」

中学生のころの話である。
おれの通っていた中学は兎に角アナーキー&バイオレンスな学校だったので。
まあ、おれの性格の悪さも災いしてか。
やたらと殴られた。
虐めにあっていたという自覚はあまりなかったというか。
まあ、学校というのはそんなもんだろうと思っていたわけだ。
例えばこんな感じで。
「おれが本気を出して殴ったら、おまえの内臓は破裂するぜ」
とか。
「おまえの腕の骨、このまま折ってやってもいんだぜ。そうしたらおまえ、どうするのかなあ」
という感じだったが。
実際には内臓が破裂したり、骨を折られたこともないので、結局大したものでは無かったということなんだろうけれど。
面倒くさいなあ、とかさっさとやるならやってくれよ、という感じだった。
ただ。
そのときだけは。
足がすくみ何もできないまま、ただ殴られていた。
そいつは。
薄ら笑いをうかべたまま、おれを殴る。
それはただ挑発するためだけの、撫でるような殴りかたで痛みは無かった。
そいつの瞳には、怒りや憎しみ、あるいは嗜虐の喜びすらなく。
その笑みの奥から、おれに問いかけているような気がした。
(さあ、やろうぜ。おまえとおれで。闇の中へ、堕ちてゆこぜ)
そのときおれは選択をせまられていたのだと思う。
闇に身を投じるか、ふみとどまるか。
その時たまたま教師が近くを通りすぎたので、そいつは舌打ちすると、おれの側から離れていった。
おれはその時、恐れていたのだろうと思う。
おれの中にある闇が。
どんどん大きくなり、おれを呑み込んでいこうとしているのを。

見越し入道は。
陽が西の空を焦がしながら沈んでゆく、夕暮れ時に。
道のむこうから小さな小僧がやってくるのだが。
その小僧を見ていると次第に大きくなり。
夕闇の中で影が伸びてゆくように。
その姿は、気がつくと巨大な入道になっているという。
恐怖にかられて、そこから逃げ出すとその後病に倒れ、最後は死にいたる。
それが見越し入道であり、病と死に至る恐怖に連なっているようだ。
ただ。
その見越し入道に対して、「見越し入道、見越した」と言ってやれば。
もとの小僧の姿に戻りやがて消えてゆくことになる。
見越し入道は結局のところ、おれたちのこころから滲み出した恐怖が黄昏時の闇を借りて立ち上がってきたもののように思う。
だから、もしその恐怖に破れてしまうと。
おれたちはそのまま自分の中の闇に喰われてしまうということなのだろうと思う。
恐怖を否定したり、そこから逃げ出したり、それと敵対し打ち消そうとしてはならない。
そうすると、それは見越し入道のようにさらに巨大化していくだけなのだ。
必要なのはむしろ、それを認め冷静に見下ろすことができれば。
多分おれたちは、恐怖と手を携えて前へとすすむことができる。

おれはそのときもしかすると、闇に呑み込まれてしまう所だったのかもしれないけれど。
まあ偶然に救われる形となった。
では、おれは自身の闇を、そして不安や恐怖を見下ろして生きていけるようになったのかというと。
そんなところには至りはしなかったけれど。
それでも、恐怖と儀礼的なダンスを踊りながら、日々を渡っていけるくらいにはなったような気はする。

 

 

 

 

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百物語 五十七回目「一つ目坊」

学生時代の話である。
おれは、嘘をつくのが好きな彼と話ていた。
「おまえ、眠たそうやな」
彼の言葉に、おれは答える。
「夢見が悪かったんだよ」
「夢なんか見るのか。 どんな夢なんや」
「いや、それが」
多少、ここに書くには憚れる内容の夢なのであるが、詳細をはぶくとようするにおれは男性器を切断して自殺する夢を見たのである。
その話を聞いたとたん、彼はにこにこと楽しそうにしはじめた。
「なんだよ」
「いやあ、とうとうきたんやなと思って」
「どういう意味だよ」
「まあ、いつかはくると思っとったよ、おれは」
「何がいいたいんだよ」
「おまえはさあ。そういう運命なんや」
「たかが夢だろう」
「いやいや。 その夢は間違いなくおまえの真実をついてる」
「どういう真実だよ」
「そういう真実やろ」
おれの周りのひとたちは、誰かあたまのいかれるやつがいるとしたら、間違いなくおれが一番最初と思っていたふしがあり。
まあ、そう思われてもしかたない感じなんだが。
逆におれだけがしぶとく生き残るとは。
誰も予想はしなかっただろうなと思う。

一つ目坊は言うまでも無く、僧衣を着た一つ目の妖怪である。
英語で「one eyed jacks」というと男性器の隠語であるという話があったように思うが。
その由来はよく知らないのだけれど。
これは俗説なのであるが、一つ目の妖怪が男性器と関連するという話があったように思う。
柳田國男は妖怪は落ちぶれていった神であるという説を唱えていたらしいが。
それでいくと一つ目坊の元となった神は、天津麻羅神であるということになるから。
ということなのだと思う。
しかし、天津麻羅の麻羅はそもそも梵語からきているので、この島国でいうところの「まら」とはまた意味が違う。
それはさておき、天津麻羅神は天目一箇神のことでもある。
天目一箇神ダイダラボッチが一つ目ひとつ足の姿をとる場合に、そのようにも呼ばれるらしい。
これらの神は、鍛冶師と関係がある。
おそらくは、鍛冶師たちの神である。
鍛冶師やおそらく陶芸家、染め屋といった工芸家集団は、秘儀秘教的な秘密結社を古代には形成していたものと想像される。
まあ、工芸の技術を神秘なものとしてとらえていたという側面もあるのだろう。
彼らは神秘思想を持ち、場合によっては異形の神を崇拝していた。
異形の神。
ミルチャ・エリアーデは、神話に登場する英雄たちが往々して四肢の一部を欠損していたり過剰であったりすることを指摘し、それら英雄は始原の世界のカオスを呼び覚ますためにそのような標しを身体に持っていたとしているが。
異形の神もまた、その異形性は始原の世界のカオスに連なるものであることを意味しているように思う。
ある意味。
それら異形の神を信望する秘儀秘教的な工芸家集団たちは。
そうした始原のカオス、何ものでもないが何ものでもありうるような潜在性の海のようなカオスから。
力を引き出す術を知っており、それを秘儀として身体に刻み込んでいたのではと。
そんなふうに思う。

おれはまあ。
カオスから力を引き出すなんて事はできなかったし。
なんとなく生き延びてしまった感を拭えないのであるが。
まあ、異形のものたちと夢の中ではせめて仲良くしたいものだと。
年をとるにつれ、切に思うようになった。

 

 

 

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百物語 五十六回目「ドラゴン」

高校生のころの話である。
大阪市立美術館は、天王寺公園の中にある。
今では有料化され、普通の公園になったが。
30年前にはかなりカオスな場所であった。
昼間から、酒をくらい、歌をうたって、踊り続ける。
そんなひとたちが、たむろしている場所であり、素性や得体のしれないひとたちが行き交う場所であった。
その中に、大阪市立美術館は君臨していたのであるが。
そこで、高校生を対象とした美術展が開かれており。
おれはそれに出展したのだが。
たまたま、そのからみで絵の師匠と美術館のそばで待ち合わせをした。
なぜか師匠は一時間ほどはやくついており。
おれがようやく辿り着いたときには、とても不機嫌であった。
師匠が言うには。
「なんだか風体の怪しいやつが僕のところにきて、兄ちゃん仕事あるか? って聞くんや」
師匠は、さらに言葉を重ねる。
「ああ、あるよって言ったら、どこかにいきおった」
師匠は、不機嫌そうに締めくくる。
「今日は、まともな服装できたつもりやったんやけどなあ」
さて、その時出展した絵は、巨大な龍が空を飛行しているというものであった。
あまり全うなものではないかもしれないけれど、なんというか色々なものがふっきれた感じの作品であったようにも思う。
燃え上がるように紅い、空の下を。
巨大な生き物が滑空していく様を。
思う存分描いてみたかったのだ、おれは。

東洋において龍は、自然の力を象徴するものであった。
オロチ、ミズチの「チ」は自然の精霊を現す言葉であり、イカヅチの「チ」も同様である。
八岐大蛇については、河川の氾濫を現したとも言われる。
西欧のドラゴンはこうした東洋の龍とは根本的に違う何かがある。
それは悪の担い手であると言える。
それは世界の終末に、全てを破壊していくような、邪悪な力を持っている。
だから常に西欧世界では英雄たち、騎士たちは、ドラゴンを退治しなければならないのだろうが。
その根本に遡ると。
おそらく、エヴァを誘惑した蛇こそが。
最も古く邪悪な龍とされるのだと思う。
だから、全ての罪業は、龍が担うことになると思う。
さて、グノーシス主義的な観点からいうと。
エヴァに知識の実を与えたのは、救い主としての龍であるということになる。
つまり。
グノーシス的に言うと位相が逆転し、龍は救い主ということになる。
それはさておき。
ユング心理学者が紹介する、キリスト教初期の文献。
まあ、十字架で魂を釣り上げるというものであるが。
魂はしばしば恐ろしい姿をとることがある。
それは、龍のような怪物の姿もとる。
結局、ドラゴンというものは、邪悪な精神の負の側面も、救済を示す正の側面も。
同時に併せ持っている、総体であり、それこそがおそるべき怪物であり。
それはユング心理学でいうところの「自己」となると思うのであるが。
まあ、このあたりはおれの妄言であると言ってもいい。

では龍の絵を描いたおれは、自分のこころから魂を釣り上げようとしたのかというと。
なんだかそうであるような気もしない。
ただ単にそれは。
巨大な生き物に対する憧れや、畏敬の念みたいなものだけだったようにも思う。

 

 

 

 

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