百物語 六十三回目「山童」

子供のころの話である。
住んでいた街は、山に囲まれていた。
家の前は坂道で、そこを下ってゆくと川があり。
その川を渡ると山である。
山へ入って遊ぶことはよくあったのだろうとは思うのだが。
不思議なことに山の中の記憶はあまりなく。
その入り口となる場所がいくつかあるのだが。
その、山の入り口である空き地はよくおぼえており。
山の中では、まるで夢を見ていたとでもいうかのように。
どこにいるのかも。
どこに向かっているのかも。
よく判らない状態で、歩いていたようである。
一度、山の中で遊んでいて道に迷ったことがあり。
おれの意識の中では、とんでもないところへ。
別の街に向かって歩いているような気がしていたのだが。
気がつくと、家のすぐ近くの山への入り口の空き地へ辿り着いていて。
とても不思議な気がしたものだった。
山の中は方角も空間もない、全てが溶けてしまったような。
混沌とした夢のような世界になっており。
そこへの入り口は空間を歪めて接続されている。
今にして思うと、そんな感じであった。

山童は。
一つ目小僧のような姿をした妖怪なのであるが。
山中に出没する妖怪であるという違いがある。
山中に出没する妖怪で、一つ目のものは色々知られている。
例えば。
一本だたらと呼ばれる妖怪がいる。
これは、一つ目だけではなく、一本腕、一本足の姿をとるらしい。
たたら、という言葉から想像されるとおり、鍛冶師と関係しているとも言われるようだ。
これら山に現れる一つ目の妖怪は。
中国の伝承にある、一枚の翼を持ち、一つ目の鳥からきているという説もあるらしい。
この鳥は。
一羽では飛ぶことができないのであるが。
二羽そろうことで、はじめて飛べるようになるという。
両面宿儺とよばれるものは。
これとは逆に、二つの顔、四本の手、四本の足を持つ。
伝承の中では、英雄として扱われることもあり。
強靭で無敵の強さを持つこともあるようだ。
これは、ギリシャ神話のアンドロギュノスにとても似ている気がする。
アンドロギュノスは背中で繋がった男女なのだが。
神がそれを切り離し、おとことおんなに分離したらしい。
プラトンの饗宴ではさるがゆえに、おとことおんなは求め合うものだと語られていたようだ。
さて。
これらのことが指し示すことは。
ひとは、ひとつの完全なものが切り離されて産み出された、個別の部分である。
あるいは。
ひとは、繋がりひとつになることによって、より大きな存在へとなってゆく。
おれは、おそらくひとはそもそも、接続され駆動される存在であることを暗示していると思うのだ。
つまり、おれたちは互いに繋がるものであり、繋がることによりさらに新しい世界へと。
飛びたっていくものであると。

山は。
それぞれ、接続できる場所があり。
その中は、混沌とした原初の世界であり。
様々な場所を空間を歪めて接続させる。
そして、そうして接続することにより。
より新たな世界を造り上げてゆくと。
そんなふうにも、思うのだ。

 

 

 

 

 

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